52:エムケイファイブ




メフィストさんは無言で足音を響かせている。私の右手首は強く握られたままだ。その手には力が込められていて、少し、いや結構痛い。

「メ、メフィスト、さん、」
「黙ってついて来なさい」
「いや、あの、ちょっと、」
「黙ってついて来なさいと言っているでしょう」
「そうじゃなくって、その、つ、つら、速い、です」

私の言葉に、メフィストさんはようやく足を止めた。
これでも候補生認定試験の後だ。屍番犬と対峙したり燐くんの動向を窺ったり、忙しくてへとへとなんだ。
呼吸を整えつつメフィストさんを見上げる。メフィストさんは静かに私を見下ろしていた。無表情で。


それは初めて見る表情だった。正直に肩が跳ねる。


「まったく、」
「え、」
「あなたは自分の現状が解っているんですか」
「へっ、な、なんのこと、ですか」

素直に訊き返すと、分かりやすく眉が寄せられた。口元は「はァ?」と言っている。

「今晩、なにがあるか覚えていますか」
「……、あ、」


―――『今夜、奥村燐を男子寮旧館屋上へおびき寄せますので、準備を頼みますよ』


あれって、今日の朝方のことだった。あまりにもいろいろなことがあって、すでに昨日のことのようにも思える。いつのまにか脇腹の痛みもなくなっていたから、すっかり忘れていた。


つまり、今夜はネイガウス先生が奥村燐にけしかける日だ。


「ようやく思い出したようですね」
「す、すみません」
「万全の状態にしておけと言っておいたのに、自ずからそれを無視するような行動をとるなんて、呆れてかけることばもありません」
「返すことばもありません……」
「まぬけなあなたに特別に、ネイガウスに薬を用意させましょう」

まぬけは余計だ。しかし確かにまぬけなので、私は呟くように感謝のことばを言った。
呆れたようにためいきを繰り返すメフィストさんに、ただただ申し訳なさを感じる。

試験と知っていたのだからいくらでも回避の方法はあったんだ。報酬としてあの“事件”に関する情報をもらえる、価値のある仕事を引き受けたというのに。ばかだなあ、私は。





ふと、沈黙が続いていたことに気がついて、視線を上げる。メフィストさんは、じっと私を見下ろしていた。うっ、な、なんだ。居心地が悪い。
そちらから口を開く気がなさそうなので、私は渋々声を発した。

「な、なんですか…、というか、何処に行くつもりですか?」
「……ほんとうに、手のかかる面倒で迷惑なひとだ」
「はァ、なに急にいッ、って、な、なにしているんですか…!?」

意味不明な台詞を吐き捨てたかと思えば、おもむろに顎を軽く掴んで持ち上げてきた。メフィストさんのライムグリーンの眼に見据えられる。




不覚にも、心臓が飛び上がった。




顔が熱くなってゆくのが明確に分かる。変な汗が出てきた。声も出なくて金魚みたいに口をぱくぱくとさせるしか出来ない。




「アインス、ツヴァイ、ドライ」

ポンッ。
コミカルな明るい音が響き、私の顔の周りが白い煙で包まれた。




煙が晴れる頃にはメフィストさんは顎から手を話していた。意味が解らず呆然としていると、頬になにか違和感がある。そこを撫でてみる。なにかやわらかいものが貼られていた。

あ、あれ、もしかして。

「女性が顔に傷をつくるものじゃありませんよ」

ずっとヒリヒリしていた頬の痛みがなくなっている。屍番犬の体液をわずかとは言え顔にもかかっていたのだろう。


それを、手当してくれたのか。


「あ、ありがとう、ございます……」
「さっさと行きますよ」
「はっはい」

ツカツカとさきほどよりもさらに足早に歩き出したメフィストさんを、あわてて追いかけた。






「メフィストさん、なんで先に頬の傷を手当してくれたんですか」
「…………、」
「メフィストさん?」
「……手当が遅れると痕が残りやすくなるでしょう」
「あー、それもそうですね」

「まあ、嫁に行けなくなったとしても私にはちっとも関係ありませんが」
「ちょッ、なんてことを言うんですか」
「ああ、あなたみたいなひとをもらいたいなんて言う、よほど奇特な方がいるかどうかですら怪しいですね」
「そういう傷つくことを言わないでください……」




mae ato
modoru