35:忘却の調べ


「おはようございます。メフィストさん」
「おはようございます。ずいぶんと早起きですね」
「まあ。今日は合宿ですから」

軽く笑ったまひるに、メフィストはふと違和感を覚える。

昨日自分は皮肉めいたことを言い、あの調子であれば今日のまひるは不機嫌なはずだ。

しかし、彼女は裏が無さそうに笑う。まるで、“昨日のことを忘れた”ように。

「まひるさん、いつ起きましたか?」
「へ?ついさっきですよ」
「そうですか……」

まひるが嘘を吐いている。

早朝から彼女の部屋で物音がしていた。すすり泣くのも聞こえた。メフィストに隠れて、何をしていたのだろう。

確かめる必要はあるが、しつこく尋ねれば合宿での計画に影響が出る。―――あとに回すとしよう。

まだ腫れ、目はうさぎの如く真っ赤になっている彼女に、メフィストは湿らせたタオルを差し出した。

「…なんでタオルを?」
「何があったのかは知りませんが、目が真っ赤ですよ」
「えっ、うわ、ほんとだ。泣いた覚えはないのに」

「……寝ているときに怖い夢でも見たのではないんですか」
「子どもじゃないんですから」

でも取り敢えず受け取っておきます、ありがとうございます。
そう言ってまひるはタオルを冷たそうに掴み、自身の瞼に押し当てる。

違和感は、未だにメフィストの内を覆っていた。

「メフィストさん、今日の候補生認定試験のことなんですが」
「なんですか、昨日すべてお話ししたでしょう。もう忘れてしまったんですか」
「覚えていますよ!馬鹿にしないでください。屍番犬が現れるんでしょう、全員が集合した場所で」
「ええ、そうです」
「それ、普通に応戦していいんですか」

「…どうしていけないんです」
「い、いや、えっと」

言葉を濁すまひるに、大体の意図は伝わってきた。嘲笑と溜息を彼女に送る。

「貴女がまともに応戦しないで認定試験に合格するとでも?」
「思っていません!はいはいちゃんと戦いますよ!」

顔を背けて口を尖らせるまだ幼い少女。無知なその姿はなんとも愉快であろうか。


しかし、こちらが知らないのはどうにもいただけない。やはり、先を行かれるのは面白くないのだ。


「これが終わり無事に合格できれば、早速祓魔師の試験を受けますよ。貴女の暗記力が衰えていなければ、下一級くらいにはなれるでしょう」

「中一級を目指します」
「志は高くてよいことですが、貴女の今の実力では無理です」
「だろうと思いますが、」

口惜しげに歯軋りをしたので、理由を尋ねればぽつりと返ってきた答えは「奥村雪男」。
どうやら、いきなり警戒されたことを未だに根に持っているようだ。

「試験に合格しても、それは一同に知らせませんよ」
「分かってます。でも、いつか発覚するときまでには奴に追いついてやりたいなあと思いまして」
「彼は対・悪魔薬学の天才です。何処で勝つと言うんですか」

「じ、実技!」
「無理です」
「過酷な現実……」

「そんなに彼に勝ちたいんですか?」
「はい」
「では、」

にたりと笑ったメフィスト。その瞬間、まひるは嫌な予感を悟った。うげ、と声を漏らす。

「そのようにカリキュラムを組みましょう。
 ええ、任せてください。貴女がそこまでして奥村雪男先生に勝ちたいのでしたら、私は努力を惜しみませんよ」
「うわああああやらかした!悪魔!ドエス!人でなし!」
「合宿も特別待遇にしましょうか?」
「結構です!」

ムキになるまひるに少しいたずらをしてやろうと、そっと手を伸ばして引き出しからひとつの真っ黒なものを取り出した。
そして、それを彼女に手渡す。

「なんですか、これ」
「お守りです。貴女を守ってくれるでしょう」

実際はそんなものではないが。これは、悪魔を引き寄せやすい匂いのついた“お守り”である。

「はは、ノーセンキューですね」

愛想笑いをしたかと思うと、まひるはすぐにそれを窓の外へと放った。さすがに単純ではなくなったようだ。

残念そうに窓の外を見やりながら、メフィストは彼女が出発した後のことを考えていた。



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