28:少しずつ、少しずつ


魔法円・印章術の授業の講師であるイゴール・ネイガウス先生は、手馴れた様子で大きなコンパスを操る。
あんな大きなコンパス、初めて見た。学校でもあれほど大きくはない。
描き上がった魔法円を見てみると、何処かで見たことがあるような図だった。
あれ、なんだったっけ。この前暗記させられたような、ええーっと…。

思い出そうとしていると、ネイガウス先生は早速手の包帯を解いて血液を垂らしていた。
ああ!あとちょっとで出てきそうなのに!悔しい!

「“テュポエウスとエキドナの息子よ。求めに応じ、出でよ”」

その呼び掛けの言葉に、私の記憶はやっとよみがえった。
そうだ、あれは。答えを口に出す前に、私は鼻を押さえる。

そうして現れたのは、やはり予想通り―――屍番犬(ナベリウス)だ。異臭を纏ったその躯は、とてつもなくグロテスクである。さすが悪魔だ。

「今からお前たちにその才能があるかテストする。先程配ったこの魔法円の略図を施した紙に、自分の血を垂らして思いつく言葉を唱えてみろ」

ネイガウス先生の指示に、全員が一斉にその小さな紙を見た。魔法円が簡易的に描かれている。
指示に従い、安全ピンで指を刺し、血液を二、三滴落とした。

メフィストさんには止められていたが、私には思いつく言葉すらないのだから召喚できるはずもないか。現に、私の頭の中には何の言葉も思い浮かんでいない。

そうこうしている内に、ひとりの女子生徒――名前は思いだせない、あの、眉毛が特徴的な女の子――が、白狐を二体召喚していた。
ネイガウス先生が賞賛の台詞を吐けば、得意げな表情をする。おお、キャラが濃い子だ。

再び私は自分の血が付いている紙に目を落とした。私にもあのような才能があれば、呼び出せるのになあ。

オブリビオンとか、ね。
まあ、出てくる筈もないんだけど。

あっ、でも居たらメフィストさんから記憶取り戻せるんじゃないのかな。それは良い。ああ、居たらいいのになあ。


―――ズズッ。


「っ、」

そんなことを思っていると、魔法円の中心から真っ黒な手が伸びてきた。
明らかに獣の手。ドス黒い液体で濡れている。

な、なに、これ。

―――「此処で異例な悪魔を召喚されては、説明が面倒になりますから」

メフィストさんの台詞が脳裏に浮かぶ。

うわ、まさかよからぬことを考えていたから変なものを召喚してしまったとか。それはやばい。

ネイガウス先生の目は、新たに召喚された緑男の悪魔に向いている。
私は意を決してその手を魔法円の方へと押し返した。しばらくその掌が押されていたが、ずっと押していればその抵抗はなくなった。
危ない危ない。

安心して手を離せば、紙には血液と黒い液体が染み付いていた。私の掌にも、その黒い液体が付着している。
ポケットから引っ張り出したハンカチで、それを拭き取っておいた。紙の方は無理そうだが。

「杉まひる、召喚できたか」
「あっ、いえ…。全く、思いつきませんでした」
「そうか」

ネイガウス先生の問いに首を振れば、関心を失ったように私の元から離れる。よし、バレていない。

一同は杜山さんが召喚したことに注目していたために、私の方など何も気にしていない様子だった。
そこまで確認し、やっと安堵の溜息を落とす。これで報告する必要も、怒られる必要もなくなった。

「まひるは召喚できたかー?」
「全然。杜山さん、召喚してたね」
「おう。しえみもずりィよな」
「出雲ちゃんもすごいわあ」
「あ、あの子出雲ちゃんっていうの」
「やっぱ知らんかったやな」
「こ、これから覚えるんだよ…」

私も一同の元へ行き、雑談に加わった。

くしゃり。
魔法円が描かれた紙は、ポケットの中だ。あとで鞄にいれておこう。また召喚しちゃったら、怖いし。

「手騎士とか、かっこよさそうなのにね」
「なんやその動機」
「ジョークジョーク」





「……」

その一部始終を見ていた二つの鋭い眼に、私が気付くことはなかった。



mae ato
modoru