19:嘘憑き


久々の休日だ。
塾は午後からなので、荷物整理をさっさと終えてゴロゴロする予定だ。引越ししてきたばかりとでも言うように積み重ねられたダンボール箱を眺めつつ考える。

持って行くことを諦めていた荷物でさえきちんと運んでもらっていたので、そこは本当に感謝している。思わず合掌。
ただ、この大きな本棚は余計だった。中にはびっちり祓魔師悪魔神様仏様陰陽師関連に聖書にその他エトセトラ。ちゃんと勉強しやがれという意味なのだろう。

確かに本は要求したが、こんなにたくさん…。まあ、知識は豊富であるほうが望ましいので素直に有難く……は、思えない。くそ、こんなにまでしてもらうなんて、癪だ。情けなさで胸がいっぱいである。


ちなみにだが、両親との連絡は取れていない。新しい携帯番号を知らないし、病院にもメフィストさんが行っては駄目だと言う。
ほぼ監禁状態だ。近々目を盗んで行こうと思っている。



まばたきも許されないほどの速度で進んでゆく現況に、いまだによくついていけてはなかった。
両親のことも、悪魔のことも、事件のことも。何もかも、中途半端なままだ。

これをするんだ。あれをするんだ。豪語するだけしておいて結局何もしないで終わりそうで、それがいちばん恐れていることだった。
結局両親に謝らないまま、仇であるメフィストさんに復讐を果たさないまま、そのまま元の世界へと帰って行きそうな気がして。それがひどく恐ろしくて。

いつのまにか震え始めていた身体に気付き、そっと肩を抱きこんだ。はは、ばかみたい。

「…ふー、よし」

ばちん。自室に渇いた音が響く。少しだけ頬がひりひりした。
今ので雑念は掃えたはずだ。だいじょうぶ。

修行に勤しむお坊さんのように、私は無心でダンボール箱のガムテープを引き剥がした。



読書に勤しむことにした。まずは、知識を吸収して鍛えなくては。私のこの未熟な力では何も出来やしない。

奴に敵うとは思っていない。ただ、一発で良いから殴りたいのだ。痛い目に合わせたいのだ。私の手で。それだけだと言い張ってみせる。本当はきっと違うのだろうとは自覚している。

まずは、悪魔について調べよう。私に取り憑いている悪魔、“オブリビオン”についてだ。

前の世界の記憶については、それほど執着してはいないつもりだ。今となっては。
だが、もしかしたら前の世界の記憶に何か大事なものがあるのかもしれない。メフィストさんが言うには、“オブリビオン”は大事な記憶を食べるらしいから。

“悪魔図鑑”なんて、そんなオカルト系のタイトルの本を引っ張り出し、真っ先に索引の頁を開く。そして“【オ】”の項目に、目を走らせた。


「………あ、れ」


一往復、二往復、“【カ】”まで巡ってそれからまた戻って。

「おかしい」

どんなに見ても、何回見ても、ない。そんな悪魔はないとでもいうように、その項目には“オブリビオン”という名前は一切存在しなかった。

念の為と図鑑全体にも他の悪魔の本にもざっと目を通してみる。―――やはり、ない。


そして脳裏に浮かぶ、ひとつの考え。


「…あンのくそ悪魔!」

私は図鑑を乱雑に閉じ、ベッドから飛び下りた。もうこれは、間違いない。あの野郎の所為だ。

バン、と手荒にドアを開ける。

「メフィストさん!」

のんびり紅茶を嗜むピエロは、私が来ることを分かっていたかのようにカップをもうひとつ用意していた。





「予想していたより気付くのに時間がかかりましたね」
「ちくしょうやっぱりか…!」
「もちろん、“オブリビオン”なんて悪魔は居ません。私が勝手に独断で創りました」

その分かっていたという反応に、私は思いの外腹が立つ。こいつはいつでも先を見越していやがる。

ちなみにオブリビオンは英語で忘却ですよ。知るか。

高血圧で倒れそうな勢いで憤怒にたぎる心を鎮めようと紅茶を飲む。カップの持ち手が割れそうだ。
メフィストさんは相も変わらず愉しそうだ。むかつく。

「ただ、貴女に前の世界の記憶がないのは事実です」
「つまり、私の前の世界の記憶はメフィストさんが所持しているということですか」
「よくお分かりで。その通りですよ」
「…何か意図があってのことだとは理解していますが、返してもらいたいので言います。返してください」

承知の上だ、彼がそんなことをしてくれるはずがないというのは。でも、それでも言っておかなければならない。私の意地として。

「クク、今はお断りします」
「っ、う、え?」
「どうかしましたか」
「い、いまは、ですか」
「今は、ですよ」

意外だった。びっくりして怒りもどこかへ吹っ飛んでしまった。
まさか“今は”という回答が来るとは。それなら、いつかは返してくれるってことか。

「じゃあ、いつならいいんですか」
「そうですねえ…。貴女が、上一級祓魔師の資格を取ったら、返してあげても良いでしょう」
「…上一級って、一番上じゃないですか」
「そうですよ。その位の実力になれば、喜んでお返しします」

すばらしく称えたいほどの無理難題である。何年かかると思っているんだ。そんなにまで執着して返してほしいものなのだろうか。
だが、このまま奴に私の記憶を預け、ありとあらゆる過去に起こしたかもしれない羞恥の数々を何度も閲覧されるのは絶対に確実に断固として嫌だ。

「分かりました。その言葉、絶対ですね」
「契約書でも書きましょうか?」
「面倒なので結構です」
「おや、そうですか」
「メフィストさんならいざとなったらそれを燃やしそうな気がしますから」
「そんなことはしませんよ」
「どうだか」

上一級になれば、さすがのメフィストさんであろうとも記憶くらいは奪えるだろう。倒すことは不可能だとしても。

「よし、」

目標がもうひとつ、増えた。



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