日ノ本の下(灰男)


カラン、カラン。下駄が軽快に鳴る。

今宵は三日月、まこと美しい月なり。番傘を差した赤い着物の女が呟いた。

ふと、がさりと茂みが揺れた。女は直ぐに其方を見やり、そうしてあの月の如く嗤う。

「私の処へ来るとは、莫迦な者も居たものだ」
《莫迦だとォ?女ァ、こんな時間に一人で歩く人間のことを莫迦だって言うんだぜェ!》

茂みを揺らした本人は、ぎらりとその躯を妖しく光らせて此方へと飛びかかった。
番傘から手を離し、広く開いたそれで一時姿を隠す。

番傘が地に着く頃には、“それ”は既に真紅で染まって倒れていた。明らかに人ではない“それ”は、この日ノ本ではこう呼ばれていた。―――“魔物”と。


+++



女――もとい時は下駄をかろりかろりと鳴らしつつ、夜道をひとり歩いていた。

昔は賑わっていたこの町も、今では人っ子ひとり居ない。日本は随分と昔に鎖国、つまり他国との交わりを断った。それからは何時の間にか政を行う人物が変わり、そのときから急激に人口が減少した。
それは、政を実施する人物と共にもたらされた災厄――魔物の所為である。魔物は次々に人を殺め、数を増やしていった。いつしか人の休める処は無くなり、日本にはほとんど魔物しか居なくなっていた。

ふと、伊豆まで歩いてきていたことに気付いた。

妙な光を魅せる神社が、幾多もの鳥居を並べている。せっかく此処まで来たのだ。参拝でもしておくとするか。―――もう仏殿も逃げ出してるやもしれまいが。

長い石段を上っていると、可笑しなものを発見した。
蜘蛛の巣に捉えられた魔物一体が、もう一つ別の魔物に首元を食われている。

数多の魔物と対峙してきて知ったことだが、どうやら彼らには“位”というものがあるそうだ。その位が高い者は、低い者を喰らう。魔物は人間を殺すか、位の低い者を喰らうことによって存命する。“殺人衝動”というものがあるらしい。恐ろしいことだ。

何もしないのが賢いだろう。時は踵を返そうとすべく番傘をくるりと回した。

―――しかし、少しばかり遅かったようだ。魔物の鋭い殺気が、時の背筋を凍らせる。

《なんだ、人間じゃないか》《珍しい》《俺が貰うよ》
「主らにやる命はないよ」

時は己の懐から脇差を取り出し、鞘を抜いて構えた。奴らは直ぐに得物を向けてきている。

「危ない!」「やられるさあ!」

驚いたことに、人の声がした。

何者だろうか、珍しい。もしかしたら自分の他に人が此処に居たのだろう。話を聞く必要がある。

《余所見とは余裕だな》
「これは失礼した」
《ぐあ、アアアァ、エクソシストかあ》

“祓魔師”――それが、時の呼び名。この魔物共は時のことをよくそう呼んでいた。この脇差が彼らを祓うことの出来る唯一の道具らしく、魔物はこれで攻撃されれば酷く痛がっていた。その代わり、これ以外の物で攻撃しても彼らは全く動じない。
時はこれを所持しているため、この魔物の住処となった日ノ本で生き永らえているわけだ。

最後の一体に脇差を突き刺し、引き抜く。鮮血が迸ると共に、魔物は動きを止めた。

「な、何て強ささ…」
「…主ら、異国の者か。異国語を話しているようだ」

身を隠していた人間らが次々に時の目の前に現れる。その外見や言語より、日本人ではないことが分かる。

異国について博識で良かった、と時は密かに安堵の溜息を吐いた。
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