DOCUMENTARY | ナノ



2017 0301 Wed


基本的にはひとりのほうが好きなのだけれど、それは比較対象として集団が存在するから言えることで、集団ももちろん好きですよ、孤独が最高ってわけじゃありません。食事や飲酒、軽食のカフェーだって誰かと行くこともあります。ひとりも好きだってだけでさ。

最近人間関係について考えることが多くなったのは、大人になったからでもある。あとはひとりの時間が増えたから。学生という枠組みに押し込められて似たような顔をした人間がずらりと並べられて、その中で息をしろって言われていた頃は考えなくても隣にひとがいた。好きでも嫌いでも関係なくそいつらと同じ酸素を共有していた。その生活はひどく億劫で、でも激動だったように思う。目の前でいろいろなことがあった時期は、決まってあの頃だった。でもそんな記憶が曖昧になってきている。何故なら彼らは他人に過ぎなくて、偶然ではあるけれども必然的に関係を持たなくてはならない相手で、だから自分の内から好きになった相手ではなかったから。環境がそうさせただけ。いま周りにいる人間もそんな感じ。環境が関わることを強制している。でも決定的に違うのは、同じ環境にいるけれども選択可能であること。選択可能な相手もいること。最も長い時間滞在しなければならないここでは、わたしは選んでひとと関わることができる。だからわたしは選んでいる。そうしていくと、ふと自分のことを省みたくなって、こんなことを考える。無益だけれど、なんだかその退屈が好きだ。

あたらしくツイッターのアカウントをつくりました。鍵を付けて、それこそ選んだ相手だけと関わる。選ぶのは相手だ。わたしは好きにおしゃべりをする。爽快、快適なり。今までは「こんなことを言うと不愉快に思われるかな」「知人に知れたらどうしよう」なんて恐れてツイッターを開いては閉めていたけれど、こいつはいいぜ。わたしは自由にしゃべっている。夢小説の話や趣味嗜好の話も遠慮せずしゃべる。選ぶのはフォロワーさん。でも、選んでくれたらわたしはしあわせだ。ここのところみんなからばっかりしあわせをもらっています。今度はわたしがお返ししなくちゃね。今月は市松が五周年になります。いろいろ節目、わたしの人生も節目のとき。さて、どうなるかな。乞うご期待。


滲んだ青が僕の恋人