DOCUMENTARY | ナノ



2017 0126 Thu

明けましておめでとうございました。もう新年が参りまして半月以上経過したのですね、光陰は矢よりも早く過ぎ行くのでした。新しいことが始まると決まって多忙になります、だから新しいって苦手だ。不変は好感度が高いけれど、だからこそ面白みに欠けるのでしょう。矛盾って言い訳、わたしは好きだなあ。

最近フォローしていただいたりメッセージをいただいたり、こころを満たしてくれることがたくさんありました。ありがとうございます。わたしのこころはいつも三分目あたりまでしか満たされていないので、みなさんのおかげでハッピーがもらえます。その少ないこころをよくひっくり返してしまうので、平衡感覚をばっちり保たなければなりませんな。ああ、そういえば放置している三周年企画のことなのですが、どうやら「人生奇」が優勝のようですね。落ち着いたら片付けて連載の用意に移ります。元々連載するつもりのあった作品なので、こうして選ばれて嬉しいです。ちょっとだけここで余談をすると、深海魚のような意地悪〜〜ドエス〜〜なメフィストは一切合切登場しません。このシリーズはどうしようもないメフィストしかいない作品にする予定です。果たしてわたしの中にそんなメフィストがいるのだろうか。一度脳髄をひっくり返して確認しておきましょう。おばかな話を書くことも真面目な話を書くことと同じくらい大好きなので、書くのが楽しみですね。

ずっと普遍的価値のある文章が書けるようになりたいと考えていました。女性の柔肌は陶器、伸びる四肢は白魚、瞳は琥珀で、声は鈴、そんな風に表されることが常識で、そんな常識に囚われた文章が目指すべき物書きの理想。そう思っていました。あくまで一例なのですけれど、簡単に言えば明朝体のよく似合う文章ということです、増して不明な説明になってしまいました。まあ、とにもかくにもわたしの理想とすべき文章があって、そう書こうと苦心していたことがあったのです。それが求められている表現で、その表現の中で行われる物語がおもしろいのだと、要求論に縛り付けられていました。けれど、何気なく、突然に「こんなことはつまらない」と思い付いてしまったのです。わたしは己の文章が結構とは思いませんし、まだまだ精進が必要だと自覚しています。けれど、そんな普遍的なものを求めることのつまらなさは解りました。確かにすてきでしょう、美しいでしょう、魅せられるでしょう。では、それはわたしが為すべき文章なのでしょうか。わたしが苦心せずとも存在するのです、普遍的価値のある文章はその普遍さが魅力なのですから、わたしが書く必要はありません、わたしではなくてもどなたか書いてくれますでしょう。なにせわたしは他力本願がポリシイ、どなたか書いてくださるのでしたらわたしは書かなくてもよいのです。そうではありませんか。ですから、わたしはただわたしの中から出づるキャラクターやストーリーがいちばん生き生きと動くことのできる文章が書ければよいのです。それが普遍性を持たずとも平凡な文章でしかなくとも、わたしのお話が生きていけばよい。そういう結論に至りました。

わたしの身勝手で他力本願で自己中心的な結論ですので、批判や反論は生まれますでしょうが、どうぞ流してやってください。だってわたしはそれで納得してしまいましたから、変えるときは己で決めます。これからもお話にいちばんぴったりな文章を綴ることのできるよう精進致しますので、何卒よろしく、よろしく願います。

そういや、市松って実は今年で五周年なんですのよ、ご存知でした?白田ってば間違って企画やっているんですから、とんだバカタレですね。

死んだ文字は何処へゆく