DOCUMENTARY | ナノ



2016 0530 Mon


深夜に日記を書くので、少し薄暗い話をします。

他人に関われば関わるほど鬱々として、自分のことが嫌いになって、無気力になります。最近何もしたくない、ぼんやりしていたいと思うのは、きっとそのせいなんだろうなあと、深夜一時のぬるま湯の中思いました。元々自分のことは大嫌いなのですが、それがさらにひどくなっていくような感じです。
望んで他人と関わっているのではなく、もちろんそんなときもあるのですが、おおよその場合仕事上、付き合い上やむなくということが多いです。気心の知れた相手であれば何も気にすることなどありませんが、そういう相手は極少数のため他人には気を張ってしまいます。特に歳を食って年季が入って来たので、教えたり指導したりする立場のほうが増えてきました。そうなるといろいろな人と会話をしなければならなくなるので、嫌になりますね。
わたしも人間ではございます、そのうえ寂しがりやの拗ねたがりにございます。そのため、他人と関わることなく生きていけるわけありません。孤独はだめですね、死んじゃいますよ。死なない人は孤独ではないのです、孤独になった人は決まって死んじまいます。ゆえに、わたしは孤独ではありません、孤独にもなれません。我儘なんです。他人と関わりたくないくせに、人と関わりたいとゴネているのです。その関わりたい人は、もういますから、新しく作らなくたってよくありませんか、どうして現状を変えなくてはなりませんか、保守的ではだめですか。それじゃあだめだと言うのです。それじゃあ何も変わらないと諌めるのです。変わらなくたっていい、変わりたくありません、今のままみんな目を瞑っていたいのです。
何かで「幸せになるには幸せになるための努力をしなければならない」「幸せを受け入れる覚悟が必要だ」「幸せは恐ろしいから一生このまま不幸でいたほうが幸せだ」みたいな話を見たことがあります。ホリックのアニメでしたかね、オリジナルストーリーの。物語シリーズの話も混濁しているかな。まあ、何だっていいのですけれど、それを見たときにひどく感動してしまいまして、頭を鈍器でゴツーンと殴られた気がしました。幸せは恐ろしい、そのとおりです、それを受け入れると同時にそれに伴う責任も背負わなければならないんですから。責任なんか置いたかありません、無責任でいたい、そんなら幸せにならなくたってちょっと不幸くらいのほうが、ちょっと不遇くらいのほうが都合よくありませんか。贅沢者ですね、わたしは。
生きているだけで幸せだ、世にはもっと不幸な人がいる、とかそんなくだらない話をしてくる奴は馬鹿者です。そんなこと、何故論じる必要がありますか。わたしはわたしの話をしているのに、何故他人を出さなければならないのですか。わたしの世界は小さいのです。どんなに他人の不幸を憂いても、地球の裏側の不幸までは背負えません。テレビの向こうの不幸は、「かわいそう」で終わってしまいます。それをどうにかしなければならないと責任感を感じて行動を起こすのであれば、自分の全てをかけなければ偽善に終わります。偽善だって善行ですから、やるに越したことはありませんけどね、やったほうがいいことは分かります。そうではなくて、個々人の不幸はその当人においての不幸ですから、他人と比較するものではないということです。

話が二転三転してしまうのは、わたしの悪いところです。要は他人と関わることが恐ろしいという話でございました。そんなことを考えているところに「自己嫌悪は自己陶酔のひとつ」ということばが飛び込んできて、全くそのとおりだと思いました。嫌いなんか言っていて、そんな自分が好きなものですよ。嫌いなところばかりですけれど、それでも五体満足で生きていけているのですからそれならばいいではありませんか。わたしは大体嫌いですけれど、ことばを紡ぐことは好きですよ。だからこうして筆を執り、日記にしたためたわけです。

嫌いなわたしを否定して擁護してくれる人よりも、それを肯定してくれる人のほうが好意を持てます。「そんなことないよ」よりも「なるほど、そうなのか」と言ってくれたほうが、ずっと気が楽ですね。まあ、出会い頭にそんなこと言われたらどっちの台詞でも癪に触りますけれど、なんて。

たまには嫌いだらけの鬱々とした日記を書いてみました。わたしは馬鹿者ですから、こんなに深々と沈思しながら生きておりませんけれど、たまの真面目もようござんしょ。息抜きですね。
また次回からは阿呆なことを書きましょう。そろそろ眠くなってきました、それでは、みなさん、目が覚めたときには昨日よりもちょっとだけ世界が明るいことを祈りまして。


葦を育てるワンダー