シルノフ編 | ナノ


 明るい日差しが、目の前にある白い石を優しく照らす。
 その白さは、これを作るときに彼女を彷彿とさせたから、と決めた美しさだった。
 ヴィタはそっと墓石の文字をなぞる。
 名前の刻まれていないそこには「ただ一人の存在」と彫られていた。
 自身の職業のせいで彼女の墓石に名前を刻むことはできなかった。生年と没年、そして彼女個人を特定できないような言葉だけ。
 すまないと思う。本当に大切で、ずっと一緒にいたいと思って結婚したのに、痛い思いをさせて死なせてしまった。
 妻、アトレーユに対して抱くのはいつも悲しいほどの思慕と後悔が半々で、それは彼女が死んでから一度として口にしたことはない。

「アトレーユ、ウォッカ…いやアレクが…本当の母親を手に掛けたみたいだ」

 言って胸が苦しくなる。
 どうしてそんな行動を取らせてしまったのかという自責の念と、そんなことをしてしまってウォッカは辛い思いをしていないかという不安がごちゃ混ぜになっているのだ。
 ウォッカにとって母親はアトレーユだけだ。それは前に聞いたことがある。
 けれどアスフォデルもまた母親なのだ。
 もっと自分がしっかりしていれば、もっと彼を見ていれば、もっとあの時上手く立ち回れていれば。
 普段はクルシェフスキーのヴィタだが、今はただ一人の父親として、息子を心配し、過去を後悔している。
 そしてこんな自分をアトレーユは叱るかもしれない。
 「父親ならしっかりしないさい!」と、何度も言われた。懐かしい記憶にヴィタは笑みを浮かべる。
 あの頃はヴィタも、ウォッカも、リキュールも毎日笑っていた。あの幸せな日々も、もう古ぼけてしまって曖昧な輪郭しか浮かばない。それが酷く悲しい。

「あの子も大人だしな、あんまりとやかく言うのはよくないかもしれないが…やっぱり親だから心配してしまうよ」

 わかっているのだ、もう子供達は子供ではない。一人のヒトとしてしっかりとした意思を持っていることくらい。
 それでも揺らぐとは、なんと情けないことか。
 はあ、とため息を吐いて俯いた。
 その時、耳に音が入る。

『いいじゃない』

 顔を上げて墓石を見つめる。しかしそこには相変わらず白い石があるばかりで、想像していたものの影も形もないのだ。幻聴かな、と自嘲気味に笑った。

『親の特権だから心配すればいいじゃない』

 ざあっと強い追い風が吹いて耳元を通り抜ける。後ろに懐かしい温かさが、ある。
 いきおいをつけて後ろを見た。けれどそこにあるのは、似たような石造りの墓石ばかりで、人の姿はまったくない。

『ねえ』

 弾んだ嬉しそうな声音、ヴィタは瞼を瞑る。拒否するためではない、耳を澄ますために。
 瞼の裏で光が点滅する。それがゆっくりと形を作っていく。

『ねえイヴァン、意外と悪いことばかりじゃないかもしれないわ』

 ゆるりと言われた言葉が、消えていく。
 瞼の裏の光を認識しながら、瞼を開けた。そこには誰もいない。
 気のせいか、それにしてはとても鮮明に聞こえた気がする。
 太陽が雲で陰る。しかしすぐに雲が途切れて、光が地面を照らす。
 ヴィタは空を見上げた。白い光が視界を一瞬塞ぐ。
 そこに、懐かしい笑顔が見えた。
 ああ、そこにいたんだな。
 ヴィタは笑って、空の青に手を伸ばした。








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