シルノフ編 | ナノ
白い雪が降ってくる。
ウォッカは一人空を見上げながらぼんやりと草の上に座っていた。
城の裏面には広い庭が広がり、その五分の三はミハイルの妻、ニキータの所持する薔薇園だ。しかし残りは冬でも手入れされ、雪があまり降らない日のみその美しさを現す庭園となっている。
その一角。とりわけ背の高い植物や生け垣に囲われた場所はウォッカの格好のサボり場として機能していた。
事件からほんの数日しか経っていない今、事態の収拾のすべての責任を負わされた身としてはゆっくりしている暇などない。が、さすがに五日連続無休は疲れた。
体力ではなく、精神的に、だ。
細かい文字で書かれた報告書やシルノフの本拠地のあった場所の始末、それらに介入してくる警察や政治関係の問題の処理などもこの五日でおおよその手回しの目途は立った。
ここまで頑張ったのだから、少しくらい休んでも大丈夫ではなかろうか。
と思えば、今度は武器の密売に関する問題もあると言われ、今度はそちらへの対処ときた。
それらをトゥルに押し付けて逃げたのは小一時間前くらいか。
はあ、と息を吐いて草の上に寝転ぶ。白い水蒸気となった煙がもわもわと漂い消えた。
「何サボってるのよ」
咎めるような声が頭上から降ってきた。
「…さすが行動力の塊、感心したね」
「なっ…バカにしてるでしょ!」
本気で驚くウォッカにエミールは顔を真っ赤にして、足をウォッカの顔がある場所に踏み下ろした。しかしウォッカはそれを当たり前のように避けると、面倒くさそうに身体を起こし、あくびをかみ殺した。
「で、謹慎処分中なのに、どうやって出てきたのかな?」
「秘密、よ!」
「あんまりうちの部下使ってオイタはしないほうがいいと思うけど」
「うっ…」
言われてエミールは言葉を詰まらせる。
見舞いにやってきたトゥルに無理を言って抜け出す手助けをしてもらったのは事実だからだ。
「ま、いいけど」
「…あっそう…」
「……」
「………あ、のさ」
「ん?」
話しかけるが、続きが出てこないのか何も言わない。そんなエミールにウォッカは「何だい?」と落ち着いた様子で続きを促した。
いつもどおり。エミールはチクリと胸の中のどこかが刺されたような、お腹をぎゅっと掴まれたような感覚を覚える。けれどそれを言うのは癪で、つっけんどんに持っていた本を差し出した。
「この本、読んだわ」
「へえ、結構内容量あったのに。一日で読んだのかい?」
それを受け取るとウォッカは慣れた様子でパラパラとページを捲る。そして本に視線を向けたまま「どうだった?」と尋ねてきた。
「…おもしろかったわ。ううん、違う。なんだろう…すごく、惹かれた」
うまく言えなくて曖昧な表現になってしまう。しかしそんなエミールにウォッカは小さく笑みをこぼして、自分の横に座るように促した。
エミールはそれに素直に従うと、じっと本を見つめる。
「俺は、とくに惹かれたわけではないけど、この本を何回も読んだよ」
「あんたが?」
「そう。どちらかというと、父の方針でなるべく読書するように言われてたんだ」
「へえ…」
ウォッカの父親というと、ヴィタのことだろう。彼がそんな教育方針を打ち立てていたとは知らなかった。
感心するエミールを余所にウォッカは話を続ける。
「この本は父が買ってきたんだ。こんな分厚いもの読めるわけがないと思ったんだけど、読んだらなかなか抜け出せなくてね」
「バスチアンみたいに?」
「バスチアンみたいに。まあ元の世界に戻ろうと決意するくだりからラストにかけては読みごたえがあるとは思うよ」
「同感。その前はちょっと辛いなって思うけど、最後はすごく満足感があったわ」
ふふふ、と笑うと「そうだろう?」とウォッカも笑う。寒いのに、あまり寒さを感じない。温かい感覚が全身を包み込む。こんな時間はいつぶりだろう。
「ああ、そうだ。ラストもいいけどね、俺はあるキャラクターが好きでたまらないんだ」
「へ?」
まさかの発言にじっと顔を見つめると、予想より優しい目と視線がかち合った。
「アトレーユ。いい少年だよ、いや良い奴かな」
エミールは「アトレーユ」を思い出す。物語の前半の主人公で、語り手だった緑の肌族の少年。最初は世界を救うために旅に出て、後半はバスチアンのために思い悩む優しい友人だ。途中で旅の一行から追放されても、バスチアンに刺されても、最後まで彼の友人であった少年。
「…そうね、アトレーユがいなかったら、バスチアンは現実の世界に帰ってこられなかったかもしれないわ」
「そう。ああいう誰かのために自分を賭けられるっていうキャラは結構好きなんだ」
「へえ、意外」
「だろうね。それに…」
一旦言葉を切って、本のを閉じると表紙を撫でる。
「名前のせいもあるけど、どうしても感情移入してしまうんだ。何もかもが似ててね」
「…誰に?」
ウォッカは空を見上げる。エミールもつられて見上げると、白い雪の舞う曇り空が広がっているだけであとは何もない。
「………俺の、母親」
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