シルノフ編 | ナノ
アスフォデル・シルノフにとって、世界は自分の視界に入るものがすべてで、世界には自分しかいない「もの」でしかなかった。
産まれた瞬間に母親は死んだ。父親はもともといない。シルノフのボスであった祖父は厳格であり、けれどその視野にアスフォデルは一切入っていない。それはアスフォデルも感じていたことであるし、祖父には「自身と同じものを見ている」という仲間意識のようなものもあった。
世界に自分自身だけ、そこには他はいない。愛も情も夢も不安も。他人に対する感情は抱かなかったし、それをアスフォデルが認識することもなかった。
幼い頃から学問を学ぶとともに、人を殺す術を学んだ。
他がない世界を感じるアスフォデルにとって、他を殺すという作業はどこにでもある人形を壊すのと同じようなもので、何かを感じることはなかった。
こんなものか。
その程度の認識だった。周囲はそんなアスフォデルを不気味がり遠巻きに見るようになった。
アスフォデルに教育を施すはずの教師もアスフォデルに近づくこともなくなり、周囲には誰もいなくなった。しかし本人は一切気にすることもなかった。そもそも彼女にとって他は他でしかなかったのだから。
そんなある日、その時はきた。
「アスフォデル」
明るい光を嫌うアスフォデルの自室は常に暗い、そこで機嫌よく自身の得物で遊んでいたアスフォデルはその声に振り向いた。
「彼はクルシェフスキーファミリーのヴィタだ。お前も聞いたことくらいはあるだろう」
年老いた祖父はそう言って一人の男を前に出した。濃い灰色の髪に大嫌いな光り色の目。その男は一人笑むアスフォデルを不気味な目で見ていた。
それにアスフォデルは笑みを返す。ヴィタは厳しい目つきでただ睨む。
敵を見る目つきだ。そこに互いへの好感はなく、ただ必要性だけがあった。
そしてアスフォデルはたった一度の行為で子を身ごもった。
それ以来、アスフォデルの世界は変わった。
自身しかいない、他はいない。そんな自分の中に他がある。これほど衝撃的な出来事は今までなかった。
胎内にいる別の命、他を産むことができる自分、そしてその他は自分の血肉を分けた存在。
それは私ではないのか。血肉を分け与えた存在ならば、子供は自分自身だ。
産んで、アスフォデルはその子を抱いた時、その思いはさらに強くなった。
これは私だ。
だから誰にも触れられないようにした。人が近づかないようにして、近づいたらすぐに殺した。
けれど、消えた。
忽然と、ベビーベッドから。大切にしていた分身が。
誰に聞いても、何に聞いても言わない。
他を鑑みないアスフォデルに、他はアスフォデルを鑑みない。
それ以来わからなくなる。私が、いなくなった。そこにいたはずの私が。
「…ど」
どこにいるの。私は。
その瞬間体中に何かが走る。
激しい痛みを体中が駆け抜けて、そして緩やかな風が全身をまとう。
世界に他はない、私だけ。
その私はどこにいるの。
頬が冷たい、水がはじける、身体から流れている。
他は、ない。
けれど今、他の存在となった『自分』が自分を傷つけた。
これが世界。
アスフォデルは微笑んだ。
自分の意思ではなく、自然に。
初めての感情を、初めての他によって与えられる喜び。これほどに穏やかな気持ちになったことはない。
これが私。これが―…。
感じたい、他を。
けれど、ひどく眠くなり。
目を閉じた。
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