シルノフ編 | ナノ
ウォッカは「アレクサンドロ」という名前だった。
父親はクルシェフスキーファミリーのボス直属の部下、母親はシルノフファミリーのボス。
それは組織同士の繋がりを作るためだけの結婚で、そこに愛はない。
むしろ関心すらなかったのかもしれない。幼い頃に本当の母親について聞いたとき、父親であるヴィタは何の感情も持たずに「死んだ」としか言わなかったのだから。
だからウォッカも「実の母親」というものに対して何の感情も抱かなかった。それこそ関心などもなかった。自分を産んだ、それが母親。それ以外に何があるというのか。
だからウォッカは「実の母親」というものが自分の幸せに割り込んだことが許せなかった。幼いアレクサンドロと弟から「母親」を奪ったから。
だからウォッカは人殺しになった。幼いアレクサンドロを手に入れるため、「実の母親」が向けたスパイをウォッカはその手で殺したから。
だからウォッカは知ってしまった。
自分が「実の母親」に何もかも似ているということが。顔立ちだけではない。人を傷つけることに何も感じず、笑顔で殺すことができる。
そっくりなんだ。
刀を下から振り上げる。アスフォデルは年齢を感じさせない動きでそれを避けると、笑顔でナイフを突きだす。
その腕を拳で叩きつけると足首のスナップをきかせて、一歩後退する。
しかし相手もそれを見逃すほど馬鹿ではなかった。
ウォッカが下がったぶん距離を縮めるとナイフを顔めがけて振るう。
ギチィ、と。金属がこすれ合って耳障りな音が響く。
「あら、そんなところに武器を仕込んでいたの?」
アスフォデルは驚いたように言った。ウォッカの普段着ている長い袖からは小型のナイフが飛び出ている。
サイズの違いがあるにも関わらず、それを一切無視してウォッカは大型のダガーナイフを一気に押し込んだ。
アスフォデルの態勢が大きく崩れる。そのままこめかみめがけて靴先を蹴りいれた。
「ええ、どこも特注品でして」
刀を袈裟に振るう。
しかし相手に後退され避けられてしまった。
反撃がくるかとすぐに下段に構えるが、アスフォデルはふらふらとした動きで立っているのもやっとという状態のように見えた。
いくら狂気で精神を保っているとしても、鉄を仕込まれた靴に頭を蹴られて平然としてはいられないだろう。
ここで殺しておこう。
長引かせても意味などない。
ウォッカは刀を片手振るう。雨で濡れた刀身はとても冷えているだろう。だからなんだ。
緩く歩いてアスフォデルに近づく。
「…っウォッカ」
聞きなれた声にウォッカは無意識にそちらを見た。そこには頬から血を流し、駆け寄るエミールの姿があった。どうやら考え通りに動いてくれなかったらしい。
「お嬢さ」
ん、と呼んだ時、エミールの横に黒い影が飛び出す。
それは先ほどまで朦朧としていたアスフォデルで手に持つナイフでエミールの首を狙う。
しかし、鋭い銃声が響く。
エミールはそのままアスフォデルの足元に銃を撃ち続け、弾切れになったのかすぐさま新たなマガジンを交換する。
その隙をアスフォデルは見逃さない。
素早く袖口に隠していたナイフを投げたが、ウォッカの一振りの前に無残に地面に転がる。
水たまりに落ちたナイフが、小さな水しぶきをまき散らした。
「…そう、そうね。いらないのよ」
アスフォデルの呟きが雨音に混ざる。
エミールはその音を拾おうと、一瞬意識を銃口から背けた。
その瞬間、アスフォデルが、急接近してきて。
赤い血が周囲に撒き散る。
ウォッカ!…違う、これは…
「…あんた」
エミールの四歩先には、地面に倒れるアスフォデルがいた。
すぐ前にいたはずのウォッカはいつのまにか一歩先にいて、持つ刀からはまだ色鮮やかな鮮血が滴っていた。
エミールは前に立つウォッカの背中を見つめた。
一瞬の出来事で頭が理解できなかったが、おそらくウォッカが刀で女を斬ったのだ。
自分自身の、母親を。
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