シルノフ編 | ナノ
似たような部屋が続く。
中に行けば行くほど窓はなくなり、人気もなくなっていく。
そしてそれにエミールは不安を感じざるおえないほど焦っていた。
ウォッカがいるのだ。きっと、あの女に会いに来た。
何をしに来たのか、などと考えるのは野暮だろう。
殺しに来たのだ。自分の母親を。
「…ってなんで私走ってるんだか」
整わない呼吸の合間に呟く。
止めるなんてことをするつもりはない、そんなことをすればきっと自分はボスの意思に反することになる。
それでも自分の手で自分の親を手に掛けることに不安を抱くのは、きっとエミールという人間が親に愛されて育ったからだ。
エミールは決して自分の親を殺そうなんて考えたことはない、敬愛すべき、愛する肉親としてしか認識したことがない。
だからウォッカが肉親を手に掛けると聞いたとき、エミールはどうしてもウォッカのそばにいたいと思った。
奴ほど心臓に毛の生えた人間そうそういないけれど…。
それでも。
「ここどこかしら」
中へとひたすら走ったのに。いつの間にか窓も何もない廊下へと出てしまった。
暗い空間をわずかに間接照明が照らす。
一寸先は闇、日本のことわざを思い出すほどの恐怖が背筋をじわじわを蝕む。
この恐怖を追っていたから、こっちで間違いないのだろうが、果たして辿り着けるのか。
再び足を動かして走り出す。曲がり角なんて、いくつ曲がっただろうか、さっき来た場所に戻ったのか、新しい場所に出たのか、それすらわからない。
「この、ままじゃ…どっちから来たかも忘れ…っ」
立ち止まって、息を整える。いったいこの屋敷の構造はなんなのだ。
ふーっと息を吐く。
そして前を向いて、動きを止めた。
ついに自分がどこにいるのかがわからなくなってしまった。前を向いていたのだから、進むべき方向は合っている…はず。その自信を失くさせるような空間、位置配置にエミールは、壁に拳を叩きつける。
バカだ。
今すぐ行かなければならないのに、もうどこ行けばいいのか、わかない。
壁にもたれ掛り汗を拭い必死に冷静を取り戻す。落ち着け、と。
あえて他人の冷静さをかかせるような場所の構造といい、廊下の配置といい、間違いなく目的地には近づいている。つまり、目的からそう離れていない。物音がないのも焦らせるためのものなのだから。
唇を噛みしめ、頭を冷やす。
「よし…」
行ける。エミールは再び進行方向を見た。
そこに誰かがいる。
エミールは咄嗟に銃を構えた。この距離なら外さない。
しかしその人物は一切何もしてこない。エミールはじっとその人物を見た。
暗がりでよく見えないが、女性に見える。白い長い髪に、動きやすそうなジャンパースカート、室内には似つかわしくない落ち着いたデザインのコートがこの空間でやけに目立つ。
「誰…」
生唾を飲んだ。いつでも撃てるよう構えながらじりじりと近づいていく。
それを見て女性は、笑った。
けれど恐怖を覚えるような笑みではない。しょうがないな、と呆れたような笑みだ。口元だけでよくわかる。
なんなのだ。
茫然とするエミールに、女性はそっと腕を上げて横の通路を指さす。こっちの行けというように。
「…こっちなの?」
エミールは藁にも縋るような気持ちで尋ねた。
女性は、柔らかく微笑む。
長い髪が緩やかに揺れた。
「…ありがとうっ」
床を力強く蹴る。
後ろを振り向けばもう誰もいない、けれど不思議と恐怖は感じなかった。
あとは道に迷わなかった。
相変わらず角がたくさんあって、部屋の位置もわかりづらいのに、こっちだという確信がある。
見たことのない回廊に出るといきなり聴覚を刺激する雨音に驚く。
どれだけの時間、音から遮断されていたのか。
ギィンッ
激しい金属音のこすれる音にエミールは視線をそちらへ向けた。
「…っウォッカ」
激しい霧雨が降りしきる庭園の中、見慣れた黒髪が見えた。
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