シルノフ編 | ナノ
無音になった部屋の中に、雨音が響く。
「あの子はね、私が産んで…すぐにどこかに行ってしまったのよ」
女の言葉を聞きたくなくて、耳を塞ごうにも手が縛れていてどうにもならず、ただ必死に首を振る。
「…でも見つけたの。あの女と男が邪魔をしたせいで、あの時はダメだったわ」
残念そうなトーンで喋る。泣いているような低さの声音にエミールは俯く女を見た。
しかし次の瞬間、部屋中にすさまじい音量の笑い声が響きわたる。
「ははっ…そうよダメだったわぁ!でもねっすぐに私のもとに戻ってくるようにしてあげたの!!私が、私が!!産んだから…ははははっあはは!」
絶え間なく続く笑い声と、その中に混ざる言葉のすべてが耳の中で反響していく。
エミールは一歩下がる。
この女は、おかしい。さきほどまでとは打って変わって壊れた人形のように笑い続ける様子に、信じられないものを見た気分になる。
さっきまでは大人しい女性にしか見えなかったのに、今は喜劇を観たあとのように面白そうに笑い語る姿が。
「戻るようにしたのに!またダメだったのっははは…あんな女殺しただけじゃ戻らないのね!!知ったわ!!でも…でも…」
いきなり笑い声が止んだ。そして沈静化した女は、いきなり嗚咽を漏らす。
「わ…わたしぃ…返してってぇ…言ったのに…あの男は何度も何度も何度も何度も邪魔してぇ…っ」
子供が泣きじゃくる姿を思い出させる光景に、混乱する。何が本当で嘘なのか。さっき目が覚めたときはあれほど冷静だったのに、今はそれを失ってしまっている。エミールはこの女が何をしたいのか測り兼ねる。
「そうよ…返して…」
「え…っ」
急に静かな声が耳元で聞こえた。認識したと思ったときには床に頭を強く叩きつけられた後だった。
「っ…」
なにをする。身体の自由がきかないのならせめて、意思だけでも反抗をしようと女を睨みつけた。が、目が合ったとき背中に冷たいものが走る。
目が赤いのは泣いたせいだろう、しかし一切の表情が浮かんでいない顔はとても冷たくて、無機質だ。それだけではない。
雰囲気がまるで違う。穏やかで、狂ったように笑って、いきなり泣いて。そのどれもと違う。周囲がひんやりとして、見られるだけで首が絞まる圧迫感。知らずに息を飲んだ。
「アレは私の物なんだから。返して」
髪を掴んで引っ張られる。痛みにうめくが、頬にあたる冷たい感触に声が出ない。
いつの間にナイフなんて。
頬に強く当てられて、皮膚が切れたのがわかる。そこから暖かな血が流れているのも。
怖い。そんなこと思いたくもないのに。
せめてその感情に気づかれないように、女をキツく睨む。
「…キレイな目」
ぽつりと、言葉が降ってくる。女はエミールの目元をそっと撫でる。
「ったい!!」
エミールは急に眼球に感じた刺激に瞼を閉じる。女が直接エミールの眼球に触れたのだ。乾いた激痛にエミールは悶える。
「…でも汚い」
女は立ち上がりエミールを見下ろした。
片方の目で女を見るとぞくりとした恐怖が心を支配する。
これは、殺気、だ。
あの時感じたものと同じ殺気に。エミールは表情が強張るのがわかる。
しかし女は何をするでもなく、立ち上がり歩きだし、部屋から出て行ってしまった。
扉が音も立てずに閉まるのがわかる。
それでもしばらく身体から力が抜けず、エミールは、声を殺して涙を流した。
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