シルノフ編 | ナノ


 暗い。
 目を開けて最初に思ったのは、それに尽きた。
 エミールは重い瞼を必死で開けて、すぐに手が縛られることに気づいた。けれど混乱しようとする頭を無理やり諌めて起き上がる。
 状況を確認するために周囲を見回すと、そこは広い空間だとわかった。
 意識を集中して、周囲に誰もいないことを確認するとため息をつく。
 誘拐された、と思う。
 起きたばかりの頭で結論を出す。よく見るお話の中で誘拐された人はたいてい「ここはどこ」と考えるだろうけれど、残念なことに現実はそうではない。
 自分が異常な事態に巻き込まれた、それさえ認識できたら想像できる状況など限られる。

「というか…あの、夢は」

 なんだろう。
 小さな子供が二人いた。見たことあるようなないような。『私』は母親のようだったけれど、それにしてはものすごく客観的に出来事を観察していたような。そもそも目が覚めて夢の内容をだいたい覚えているのがすごい。
 そしてそれはとても、悲しい。
 思いが溢れるような気持ちが増殖して消えていく。
 縛られた手を持ち上げて瞼をこすると、手に何かがついた。

「…なんで泣いてるのよ、私」

 血だったら臭いですぐに気づくから、これはそうじゃない。これは涙だ。
 人をたくさん殺してきた、そんな自分が持っていい悲しみではない。
 死ぬ直前の、他人の感情なんて。
 頭を振って考えを追い出す。ともかく今は現状を確認することが何よりも重要なのだから。
 じっと目をこらして、部屋の中を観察した。
 徐々に慣れてきた目が最初に捉えたのは窓だった。大きな窓のなのだろうが黒くて重そうなカーテンできっちりと閉められて、外の様子はまったく見えない。
 雨が降っているということだけは音で確認できた。
 立ち上がろうとして、足が縛られていないことに気づく。どれだけ格下に見られたのだろうか、心の中で呆れたように呟くと足を床につけた。
 自分はソファに寝かされていたらしく、足を下ろすとふかふかの絨毯の感触が靴を通して足先に伝わる。
 そのまま立ち上がり、周囲を見回すとあることに気づいた。

「まさか…子供部屋?」

 赤ん坊用の小さなベッドに、天井から吊るされたおもちゃ。床には無造作に積み木やぬいぐるみが置かれていて、そしてそのどれもが真新しかった。
 ベッドに近づきシーツに触れると、それがとても清潔なものだということがわかった。けれど肝心の赤ん坊がいない。
 あまりにも丁寧に整えられたそれは長年使われていないような寂しさを持っていた。
 下に散らばるぬいぐるみを一つ手に取る。くまのぬいぐるみだろうか、暗さで色まで判別はできないけれど、それも使われた様子はまるでない。
 天井で吊るされた飛行機のおもちゃは何かの振動を感じているらしく、ほんの少しだけゆらゆらと揺れている。

「…なんて、さみしい部屋なのかしら」

 一切の汚れがない。けれど主が不在を待ち続けているような、主がいたことがいない無意味なもののような、無価値なさみしさが広がる部屋。

「…さみしい?どうして?」

 シンとした部屋に声が響く。振り向けば、暗闇にまぎれるように一人の女が床に座っていた。
 黒い髪に、病的なまでに白い肌。

「あ、んたっ」

 エミールは咄嗟に身構えた。いつのまにいたのだろうか、いつからいたのだろうか。そんな疑問が頭をよぎる。けれど女はエミールの殺意こもった視線を気にするでもなく、ゆるりと首をかしげた。
 殺気も敵意もない様子に力が自然と抜ける。

「だって…」

「だって?」

「だってここは、この部屋はまるで…死んでいるようだわ」

 言いにくいことをはっきりと口にするとエミールは自分の考えが間違いないように思った。
 静かな、いるべき存在のいない意味がないこの場所の時間だけが止まっている。
 女はそれに何を思ったのか、傾げたままだった首を戻して立ち上がりエミールに近づく。
 エミールは再び身構えた。しかし予想に反して女はベビーベッドに手をかけた。

「ここには私のものがいるの。私だけのもの。私が産んだ、アレがいるの」

 心穏やかな声とは裏腹に、顔は無表情だ。

「もの、とか、アレとか…なに?」

 エミールは女が「産んだ」というものを聞く。ひどく動揺しているのが自分でもわかった。
 それに気をよくしたのか、女は緩やかな笑みを浮かべた。繊細な細工の施された装飾品のような笑みだけれど、目元の柔らかさに見覚えがある。

「私が産んだ子。あなたのところの…ああ、なんていったかしら」

 本当に思い出せない素振りで呟く。相変わらず柔らかない目元と口元に、エミールは否定をしたい気持ちでいっぱいだった。そんなはずはない、それだけは違ってと。
 そんなエミールの心中を知ってか知らずが、女は急に「そうだわ!」とやけに弾んだ声を出す。

「そうよ、アレクサンドロ…今は『ウォッカ』というそうよ?」

 その言葉だけが、どこか遠く世界のように耳から耳へと抜けて、けれどしっかりと頭にこびりついた。







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