シルノフ編 | ナノ
「まったくなんなのよ!ククールの奴!」
エミールは鼻息を荒くしながら廊下を歩く。目指しているのはウォッカの執務室だ。ククールの言うとおりウォッカならば詳細をすでに調べているだろう。
『いや泣くんじゃないかと』
しかしククールの言葉を思い出すと足が止まりかける。
「…泣かないわよっ」
今度ククールの中のエミール・ミハイロブナ・クルシェフスカヤという人物像を修正しておく必要がある、とエミールは本気で考える。
そもそもなぜウォッカのところに行ったら泣くのかがわからない。あの胡散臭い笑顔を見たら逆に腹が立つというならわかるけれど。
ぶつぶつと呟きながらエミールの足は、速度をどんどん落としていく。まるでウォッカの部屋に行くのを嫌がっているように。
「…泣かないわよ、ね」
さきほどとは一転して自信をなくしたような言葉が出たことに、エミールは驚いていた。
気を弱くしたら付け込まれる、気を強く持たなくては。そんな当たり前のことすら忘れてしまいそうなほど、何かを不安がっている。
私は何でウォッカに会ったら泣くかもしれないなんて考えているのかしら。
キルシュが傷つけられたことに対する混乱は、ロザリとククールがほぐしてくれたのに。まだ、そのことで残したままのしこりを、ウォッカに暴かれるなんて恐れているのか。いや、彼はそんなことはしない。
人が嫌がることをするのが大好きとはいえ、加減を知っているし、空気も読める。
ではなんだろうか。
そんな疑問を振り払うようにエミールは自分の頬をつねる。そんなくだらないことを考えている暇ではないのだ。とにかくキルシュを傷つけた犯人を捜し出さなくては。
このクルシェフスキーに敵対するのなら、容赦はしない。そう決意すると目的地へと向かう足に力が入る。
「エミール様」
話しかけられて足を止める。
そこには黒いスーツを着た男性がいた。
「何?」
「ボスがキルシュ様のことでお話があるそうです。すぐに執務室へ来るようにと」
「お父様が?」
「はい」
男の言葉に、考え込む。もちろんここでボスの命令を無視するなどあってはならないし、父が言うならばとても重要なことなのだろう。それならば父は自分の知っている部下を伝令に使うはずだ。
「あなたは誰?」
「失礼いたしました。ロジオンと申します。先日までヴィタ様の部下として中東の情勢を調査しに派遣されておりました」
折り目正しく頭を下げる。四十路くらいか、筋骨隆々とまではいかなくても、かなり体つきがいい、一見するとかなり力任せで動きそうな印象を受ける。しかしその目はよく見たらとても知的な色を持っていた。
悪い人ではなさそうだ。
「…わかったわ」
頷いて、進むべき道を変える。
ウォッカの執務室とボスの執務室はそれなりに場所が離れているため、行くには少し時間がかかるだろう。例えるなら北から南へ。どちらも二階以上に部屋があるのに、城の庭に面する一階の廊下を通り、わざわざ遠回りしなければならないのだからその遠さは推して知るべしだ。
「…エミール様」
話しかけられ後ろを向けば、警戒するように廊下を見るロジオンいた。
なんだろうかとそちらを向けば、庭に誰かが立っていた。
「…誰?」
手は腰につけたホルスターに伸ばし、警戒をしながら目をこらしてその姿を見る。
それは女だった。長くて黒い髪は緩やかにうねり、雨水を多分に含んであやしく輝いている、白い肌の中には光のない黒い目があってじっとこちらを見ていた。暗く日の差さない整えられた庭は雨のせいもあって、ひどく情緒的で。
女の存在は意識を集中しないとすぐに見失ってしまうほど、とても自然にその場に馴染んでいた。
「…あの子じゃない」
白すぎる肌の中にあって、同じくらい色を失った唇が何かを言った。それに疑問を持っていると、横で何かが動く気配がして。
首に衝撃を感じたと同時に目の前が真っ暗になった。
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