シルノフ編 | ナノ
車外は大雨だ。
ここ最近、空が灰色かかっていてばかりだったから、いつかは降るだろうとは思っていたが、まさかこのタイミングで降るとは。
物憂げにため息を吐いてキルシュは窓の外を横切っていく風景を見ながら、リキュールの報告を思い出す。
調べるよう命令してから三日しか経っていないのに、恐ろしいほどの情報を調べ上げたリキュールの結論は「あきらかに外部に情報を流している者がいる」という結論だった。
さらに別で動いていたウォッカからは、これまでの入手ルートすべてに細工を仕掛けられていることから、クルシェフスキーの持つ外交ルートすら把握されているかもしれない、という事実を述べられ愕然としてしまった。
とはいえ内部はすでにククールとリキュールで、外部はウォッカが手を回している。おそらく見つかるのも時間の問題だろう。
ただ一つ気になることがある。
『けっして気を抜かないでください』
そう言っていつも通りの笑顔を浮かべ部屋を出て行ったウォッカの言葉だ。
彼が他人を気に掛けること自体が珍しい上、あんな確信があるような言い方をされたら自分の身に何か起こるということを嫌でも想像してしまう。
それにウォッカは任務に関して言えば恐ろしく確実性を求める男だ。
今まで彼が関わってきた外交の成功率、異常事態の解決数を鑑みればどれほどの手腕を持っているのだと疑わずにはいられない。
そんな男の忠告だ。
しかし具体的なことを言わずに去るのはいかがなものか。
そこまで考えて気を抜く暇もない、と思考を現実に戻す。今はとあるファミリーとの話し合いにボスの代わりに行くという仕事をミハイル本人から言い渡されたのだ。
ミハイル本人が行かずとも良いからなのか、自身の力量を信じてくれているのかは微妙なところではあるが。
その時、車がぬかるみにはまり込んだように大きく揺れ、動きを止めた。
「どうした」
「わかりません、急に…」
不審がる運転手に、キルシュは助手席と横に座っていた部下に目配せすると、周囲を警戒しはじめた。
その時、なぜか窓のウィンドウが開いていく。
まずい。
そう考えた瞬間。
左肩が熱くなった。
続いて激痛が襲ってくる。わけがわからぬまま車から引き摺り下ろされ、雨で抜かるんだ地面に転がされる。
「…ねぇ」
ぞくり、と。血の気を失っていく身体に鞭打つような冷たい声が聞こえた。
顔を上げればひどく美しい女が一人。
「あなたはあの子を知っているの?」
真っ黒い髪と目。優しげな面立ちが穏やかにささやく。
キルシュは地面を這う血を視界の端に捉え、逆に冷静さを取り戻した。
「…お前は誰だ」
痛みに耐えるため飲み込んだ唾はやけに鉄臭い。奥歯を噛みしめて何とか言葉を吐くと、なぜか女の表情が嬉しそうな笑みに変わった。
「はははっ…あはっ、ははははは!!そうね、そうよ!!」
何を納得したのか、一人楽しそうに笑う。横たわるキルシュに寄り添うように屈めていた身体を起こし、立ち上がってひたすらに笑う。
そして笑いながらキルシュの髪を掴み、持ち上げる。
「…っ」
「綺麗な目…欲しいなぁ」
うっとりとした目と、狂喜に染まる口元の歪さに、背筋が凍る。
鼻息がかかる近さに女の顔がある。自然と目を逸らすことができずに、形だけ穏やかな目を睨み返す。
けれど不意に、その目をどこかで見たことあるような既視感を覚えた。
「でもいらない」
女の声とずらした視線の先に見えた光る何か。
そこで意識が途切れた。
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