クルィロフ家編 | ナノ
時間があれば書庫で読書。
それが幼いエミールの日課だった。
その日課も、突然の来訪者によって中断せざるを得なくなったが。
「「……」」
お互い無言というのは何と言うか、どう反応して良いか分からない。
第一印象がよくなかったはずの男が突然現れたのだから、少女の顔はみるみる内に引き攣っていった。
ひっ、とでも言えば良かったのだろうが、エミールは無言のまま手に持っていた本を突然の来訪者―…ウォッカに投げ付けてしまった。
それに続いてバサバサバサと何とも賑やかしい音がする。
エミールは自身が築いていた本の山に突っ込んでいた。
どうしたものかとウォッカは思ったが、「とりあえず起き上がって下さい」とエミールに声をかけた。
それに反応してエミールは顔を真っ赤にさせる。
ウォッカはそんなエミールを何とか椅子に腰掛けさせ、先程こけた時に擦ったであろう手足を見た。
足には傷一つついてないみたいだが、手の平に少しだけ擦り傷が出来ていた。
「これくらいなら、消毒は必要ないでしょう」
そう言ってエミールに触れていた手を離す。
エミールは怖ず怖ずとウォッカに尋ねた。
「それよりもあなたは大丈夫ですか?……ごめんなさい。本を投げてしまって…」
捨てられた子犬のようにシュンと俯き、本当に申し訳なかったと反省しているのだろう。
「そんなつもりはなかったんだけど、後ろを向いたらあなたがいたから、驚いてしまって……」
そこまで話した所でウォッカが可笑しそうに笑いを堪えていた。
「はは…おもしろ……」
「え!?」
ウォッカが何故笑っているかは知らないが、エミールはあんなに反省したことが何だか阿呆らしく思えてきた。
「別に怒っていません。というより、よくありますから」
ウォッカのその言葉にエミールは「?」と首を傾げた。
「気配を潜めてフラフラするからよく相手を驚かせてしまうんです。特に年下にはそれが顕著で」
「そうなんですか…」
「お嬢さんは勉強、ですか?」
嫌味にならない程度の笑顔で、あくまでもエミールを怯えさせないように尋ねる。
エミールはそんなウォッカに安心したのか、まるで親しい者に話すかのように話し出す。
「母様が皆から褒めてもらえる娘になるんです!母様、私のせいでたくさん嫌な思いをしただろうから」
そう言ってエミールは本を抱きしめる。
これにはウォッカもエミールの認識を改めざるを得ない。出自はどうであれ、箱入りだとばかり思っていた少女は予想より子供らしくなかった。
「ふたつだけ、良いですか?」
ウォッカは微笑する。
「たいていの親が子供のためにする苦労って、親は嫌だけど仕方なくしているんだと思ってますか?」
「母様はそんな人じゃありません!」
そこまで言ってエミールはハッとする。
「そういうことだと思います。お嬢さんの為にその苦労を平気でしてくれる方、他にもいらっしゃるでしょう?」
ウォッカの言葉にエミールは父母の他にも祖父母やニキータ、キルシュが頭の中に浮かんできた。
けれど、その温かな好意を受けてばかりの自分がエミールは情けなかった。
いつか恩返しするつもりでいるから、勉強に励んできたのだ。
その姿が周囲と一線を画しているようにも見えているのだが。
「その方々に何かをして差し上げたいなら、まずはお嬢さんが元気でいないと。たくさん遊んで、たくさん食べて、たくさん寝ての本当の意味、分かりましたか?」
それは無償の慈愛。
《無理をしてまで何もしてくれなくても良い。ただエミールが元気でいてくれたら》
込められた思いに頑なだったエミールの心は溶かされていく。
「でも、どうしてその言葉を…?」
「あぁ、この間つい耳に入っただけですよ」
そう言ってウォッカはまた意図の掴めない笑顔をした。
「あとひとつですけど、」
「? はい」
「私は元気ですって相手に知らせたいなら、ご飯をおかわりしたら良いですよ」
「へ…?」
あまりに笑顔で言うものだから、エミールはきょとんとしとしまった。
その晩、ミハイル、ニキータ、キルシュと共にする晩餐で、いつもは静かに黙々と食べているだけのエミールが初めてお代わりをした。
近くに控えていた執事長は目を見開き、エミールの初お代わりに料理長は目に皺を寄せて喜んだ。
ミハイルとニキータはいつも以上ににこにこと微笑み、キルシュは負けじとお代わりを要求した。
後からエミールにその時の話を聞いたモニカはその変化をとても喜んだのだった。
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