クルィロフ家編 | ナノ
ウォッカとエミールが出会ったのはエミールが6、7歳のころだ。
珍しくエミールとその両親であるミハイルとモニカの親子3人が邸内を散歩していた。そのお供をしていたヴァーシリーは、任務終わりの年若いウォッカが鮮やかな返り血を纏って現れたのにギョっとした。
幼く、こういったことにあまり免疫がなかったエミールは母であるモニカの後ろに隠れてしまった。
当時まだ十代だったであろうウォッカはボスであるミハイルを視界に捉えると軽く会釈した。廊下の端に寄り道を開けるウォッカにミハイルは「ご苦労だったね、ウォッカ」と声をかけた。
ウォッカは「ありがとうございます」とだけ言うと女性の後ろで怯える幼い少女をちらりと見る。
「あぁ、紹介がまだだったね。私の娘、エミールとその母のモニカだ」
ミハイルのその言葉にモニカは「はじめまして」と続ける。
モニカはウォッカの血まみれの姿にも動揺せず、「娘は慣れてないの。ごめんなさいね」と言った。
(あぁ、これが例のボスの………)
愛人というやつか。そう理解したウォッカは得意の見た目だけは愛想の良い、だが見る者には意図の掴めない笑顔を浮かべる。
「お初にお目にかかりますウォッカです」
ウォッカはそう言って軽い会釈をする。
だが、そんなウォッカにますます眉間に皺を寄せて今にも泣き出しそうなエミールは、より一層母の服の裾を強く握りしめて離そうとしない。
モニカは娘の頭を撫でてやりながら慈しむように微笑んで見せる。
そうするとエミールはひどく落ち着いたような顔をした。
何とも言えない居心地の悪さを感じたウォッカはさっさと行ってくれと心の中で願う。
ミハイルとモニカはそんなウォッカに気が付いていたけれど、モニカは敢えてウォッカの傍を離れようとしなかった。
それどころかウォッカの顔についた返り血を自身のストールで拭い始めた。
「! な、何を…」
「怪我がないから良いものを、いつまでも肌に血を付着させておいちゃ駄目でしょう?」
細やかな刺繍の施されたそれはかなり高級品だと思われるもので、多分ボスであるミハイルがモニカに贈ったものであろう。
ボスが贈った品で返り血を拭われるというのも何だか心臓に悪い。
母が子にでもするようにモニカはウォッカの返り血を拭ってやる。
モニカより幾分か背丈のあるウォッカは見上げてくるモニカに奇妙なものでも見るかのような視線を送る。
「先に言っておくけど、」
モニカはウォッカの頬に手をあてる。
「私、愛人じゃないわよ」
意地の悪そうな微笑みを浮かべながらモニカは更に言葉を続ける。
「そりゃあ、可愛い娘もいるけど。ボスとは共犯関係よ。頭のお堅い連中に言っても分からないだろうけど、貴方は聡い子だから分かるわね?」
モニカの言葉にウォッカは血の気が引く思いがした。
つまり。この女性には自分の考えていたことが伝わってしまったらしい。
早急にそれを理解したウォッカだったが、得意の愛想笑いは引き攣ってしまっている。
「まぁ共犯だろうが愛人だろうが、他人からしてみればどっちでも良いって話」
「…どうして俺に、」
「何となく。話の分かりそうな人に話すのはあまり苦にならないかなって」
モニカはそう言って軽く微笑む。
「こらモニカ。何イチャイチャしてるんだい」
ミハイルはむっとした表情で横からモニカの肩を抱き寄せ、エミールは父に負けじとモニカの腰に抱き着いてきた。
そんな娘(父除く)の様子が堪らなく愛おしくなったのか、モニカはミハイルを払いのけエミールを抱きしめる。
「あぁなんて可愛いのかしら…!大丈夫、私にはエミールだけだからね」
目に入れても痛くないとはこのことを言うのだろう。モニカのエミールの溺愛ぶりにはウォッカの引き攣っていた顔はさらに引き攣ってしまった。
払いのけられたミハイルはそれでも負けじとモニカの肩を抱く。
モニカは欝陶しそうに眉間に皺を寄せたが、最後は仕方なさげにミハイルのなすがままになっていた。
エミールがそれを見て幸せそうに笑えば、モニカは極上の微笑みを浮かべ、そんな二人の微笑みに機嫌をよくしたミハイルも笑顔を見せた。
(ああ、これは、)
――――自分から手を離した類の代物なのだろう。
ウォッカは目を細めながら一人取り残されたその輪の外からぼんやりそう思った。
「…ッカ、ウォッカくん?」
自分を呼ぶ声にハッとしたウォッカはゆっくりとその声の方に振り向く。
「っ、あ、すみません。ご心配なく。ほんの少し考えごとを…」
言葉を濁しながらウォッカは後ずさる。
そんなウォッカの様子にミハイルは何かを感じ取ったのか、ヴァーシリーにエミールを連れて先に行っているように促した。
その時、エミールがちらりとウォッカに向けた視線をモニカは見逃さなかった。
その場に残ったミハイルとモニカはウォッカとの距離を詰めた。
「貴方のお父様を私は知っているわ。ヴィタは私と共にボスの世話役を務めていたから。だから、あまり他人行儀なことをしないでちょうだい」
ウォッカの背をさすりながらコソっとモニカは爆弾を投下してくれた。
「エミールったら、貴方のこと好きになっちゃうかも」
「…………。は…………?」
自分では到底理解出来ないだろうことを言われてウォッカはたじろぐ。
今思えばこのモニカの発言こそが全ての始まりだったのではないかとウォッカは思っている。
「だって私の好きなタイプはヴィタだもの」
「は、はぁ…」
初対面の会話にしては、はっちゃけ過ぎではないだろうかというウォッカを余所にモニカは瞳を輝かせながら話している。
そんなモニカにミハイルは「モニカ!?」と色々とツッコミ所満載で大変そうだった。
そんな二人の愛娘であるエミールとウォッカが再会するのにそう時間はいらなかった。
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