月島にとってみょうじなまえは初めての恋人だった。みょうじはひとつ上の先輩だ。クラスも違うし学年も違うが、月島とみょうじは委員会が同じだった。たまに喋る程度の先輩と後輩の関係で、接点はそれくらいしかなかった。 みょうじが月島を好きになる要素は皆無に等しいのだが、そんな少ない関わりの中でみょうじは月島に好意を抱いたようだった。 告白したのはもちろんみょうじからだ。正直に言ってしまえば月島はみょうじのことは詳しくない。知っていることといったらみょうじが二年生で文芸部に所属していることくらいだろう。 そんな表面上の僅かな部分しか知らないのだが、月島はみょうじの告白を受け入れた。確かにみょうじのことはよく知らないし、戸惑いがないといえば嘘だった。不安もあったし疑心もあった。とはいえ、みょうじの容姿も雰囲気も月島の好みだった。一目惚れとまではいかないけれど、印象がとてもよかったのだ。だから断る理由がなかった。 それからみょうじと月島は先輩後輩から彼氏彼女になった。だが、みょうじは初めての彼女だ。ひとつ上とはいえ年上だからどう接しっていいのか分からなかった。更にいってしまうと、手を繋ぐのも一緒に帰るのもデートをするのも、そしてキスも全部が全部初めてだった。 平静を装おっていても緊張しないわけがなくて、早まる鼓動を耳の奥で聞きながら初めてみょうじとキスをしたときは羞恥でいっぱいだった。爆発しそうな心臓を抑え込むのに必死でキスをすることよりもキスをしたあとのほうが気恥ずかしくて仕方なかった。 けれど、改めて思い返してみるとみょうじはキスが上手かったように思う。 月島自身緊張していたというのもあるけれど、勢いに任せて押し付けるようにキスをしたのはいいが、勢いをつけすぎたせいで歯をガチリとぶつかってしまった。 キスは初めてだといっているようなものでとにかく恥ずかしかったのだが、みょうじは怒るわけでも呆れるわけでもなく小さく笑うと「キスはね、こうするんだよ」そう言って、月島の唇にそっと重ねた。 そのときは柔らかくてあたたかくて、どくどくどくと心臓がうるさいだけだった。感触なんて感じる暇もなかった。 しかし、みょうじが上手いのは感覚だけで理解していた。緊張と羞恥で思考が全く機能していなかったけど、こうして思い返すように記憶や感覚を辿れば辿るほどみょうじは慣れているように思えて、今更ながら嫉妬にも似た何かを感じた。 お互いに初めての感覚を共有して、一歩一歩経験を積んでいきたかった。随分と乙女な思考だと思うが、それだけ彼女が特別なのだ。それに気付いたところで手遅れなことに変わりはないし、今更願ったところで叶わないことは分かっているが、それでも彼女の全部の初めてを自分だけのものにしたかった。月島はみょうじに執着とも独占欲ともつかない感情を抱いていた。 「月島くん?」 顔を覗き込むようにみょうじが月島を呼ぶ。視界に飛び込んできた彼女の顔と耳に入ってきた声音にハッとして思考を霧散させる。月島は数回まばたきをすると「なんでもないです」そう言って、不器用ながらに笑みを作った。 中間考査を一週間に控えているため、すべての部活が活動中止している。それはバレー部も同じで、もちろん文芸部もその対象だった。 部活がないことに嬉々とする生徒もいれば、テスト勉強に辟易する生徒もいる。 月島もみょうじも勉強せずとも平均以上の点数が取れるため、周りの生徒のようにそこまで焦った気持ちはなかったが、いろいろあって学校から少し離れた場所にある図書館で勉強をしようということになった。まあ、簡単な話、このまま帰ってしまうのが勿体無かったからだ。少しでも一緒にいれるならどんな口実でも構わない、そんな気持ちだった。 HRを終えると月島は山口と乗降口まで行き、そこで別れた。山口は月島とみょうじの関係を知っている。みょうじと図書館に行くという月島の話を聞いて軽く察した山口はまた明日と言って帰っていった。 月島はその後ろ姿を見送りながら乗降口にいた。日直のみょうじを待っている最中だった。 どのくらいそうして立ち尽くしていたかは分からないが、思考を巡らせるだけの時間はあったのだろう。お陰で思い出したくないことまで思い出してしまった。だが、気恥ずかしいと思ったのは一瞬だった。みょうじの呼び声に思考が中断したのはその直ぐ後で、待ちぼうけから解放されたのはみょうじの姿を視界に入れたからだった。 「待たせちゃってごめんね」 「そんなに待ってないですよ」 「そう? よかった」 月島は目を細めた。笑顔のみょうじが眩しかった。 「それじゃ、図書館行こっか」 「……ええ」 乗降口には月島とみょうじを除いて誰もいない。校舎から人の声や気配がするため残っている者はいるのだろう。 そういえばと思い出す。クラスメイトの誰かが教室に残ってテスト勉強をすると言っていた。おそらく他にもそういった生徒がいるはずだ。 どうでもいいことを考えながら隣のみょうじを横目に見る。随分と小柄なため見下ろすような形になるが、さらりと流れる髪と時折覗くうなじが印象的に映る。見慣れているはずの光景なのに未だにどきりとさせられることが多い。 月島は気持ちを落ち着かるために軽く息をついた。みょうじから視線を逸らして前方を向いた。 「ねえ、月島くん」 「どうしました?」 「手……繋いでもいいかな?」 「……。いいですよ」 みょうじが伸ばしてきた手に月島は自分の手を重ねた。ギュッと握ってぬくもりを確かめる。そっと盗み見るようにみょうじに目をやると、彼女は耳も頬も赤くして照れた笑みを浮かべていた。 ああやばい。そう思ったときには遅かった。 月島はみょうじの手を引いて立ち止まらせると、そっと身を屈めて彼女にキスをした。触れるだけの柔らかいキスだ。閉じていた目を開けると間近の彼女は驚いたように瞠目していた。 先輩でもこうして真っ赤になるんだな、と妙な嬉しさが沸き上がった。 「…………好きです」 そう言って、月島は再び顔を寄せた。学校の前で不謹慎だと思わなくもなかったが、彼女にキスをしたいという欲求のほうが強かった。 みょうじの唇は震えていた。羞恥からの震えなのか、怒りなのか、他の何かなのかは分からない。けれど、嫌がらないことを考えると満更でもないのだろう。 未だに月島のキスは拙いままだが、今のみょうじを翻弄するには充分なようだ。気分がいい、そう思いながら内心で笑みを深める。こうして優越感に浸るのも悪くない。 月島はじっくりと彼女を見つめてから目を閉じた。想いをぶつけるように吐息を混ぜながら口づけを深くする。今までにないほどに甘美な味がした。 |