××な女の子 | ナノ

「今回も、よろしくお願いします……」
 放課後。三年四組の教室。みょうじなまえは両手いっぱいに教科書やワークブック、ノートを抱えて頭を下げた。中はもちろん真っ白で、手をつけた形跡はほとんどない。冬には受験を控えているというのにこの有様なのだから、菅原は呆れ半分諦め半分の溜息をなまえに向けた。テスト期間にも関わらずここまで勉強をしていないのは何故なのか。答えは簡単だ。ただ単純に、みょうじなまえは勉強が嫌いだからである。
「……今回も、ねぇ」
 そもそも、嫌いというよりかは、苦手という表現のほうが当て嵌っているかもしれない。勉強をやる気はあっても、要領が悪いのか、きつい言い方をすればただ単純に頭が悪いせいか、どちらにせよ机に向かい合った時間とテストの点数の結果が比例しないのだ。そのせいでなけなしのやる気も削がれてしまう。付き合い始めてから、菅原はそれを重々承知して、みょうじに勉強を教えてやっていた。赤点ギリギリの点数を取りながら、毎回彼女がなんとか追試を切り抜けているのは、菅原が勉強を見てやっているからに他ならなかった。
「私、前回数学ひどかったでしょ?」
「あー、うん」
「今回平均点行かなかったら、部活やめさせるって、お母さんが」
「平均点……」
 なまえが今まで受けた数学のテストで、平均点を上回っているものが一度でもあっただろうか。菅原はここ一年間のなまえのテスト結果を頭の中で思い返してみたがそんなことは記憶にない。
「私、バレー絶対にやめたくない……」
 泣きそうな声を振り絞りながら、なまえは潤んだ瞳を菅原に向ける。ああ、だから今回はこんなに切羽詰まった表情をしていたのか、と理解するのと同時に、これはだいぶエグいことになりそうだと菅原は頭を抱えた。
「相当キツそうだけど、頑張れる?」
「うん」
 なまえは力強く頷いた。なまえの気持ちは菅原にもよく分かっていたし、できることなら彼氏として協力をしてやりたい。ただ、今まで以上に厳しく教えなければいけなくなりそうだが。
「よし、じゃあ、アレだな」
 菅原が笑い、なまえの顔が引き攣った。アレか。アレなのか。今回避けては通れない道だと思っていたけれどやっぱりやるのか。あの勉強合宿を。いつだったか、今と同じような状況で追い詰められていたなまえに菅原がもちかけた提案で始まった勉強合宿。土曜から日曜まで菅原の家に泊まりがけで行われたそれは、暇さえあればとにかく勉強をするという頭が弱いなまえにとって至極ハードなものだった。できれば二度とやりたくないのが本音である。ただ、あれが結果的に身になるのも確かだ。何せほぼ一日つきっきりで菅原に勉強を教えてもらえるのだから。
「あ、でも俺の家今週ダメだなー」
 どう返事をしようか迷っているなまえはそっちのけで、菅原はつぶやいた。なまえにはいつも天使のような菅原が今この瞬間に限っては軽く悪魔のように思えた。覚悟を決めるしかない。
「それなら、私の家でやる?」
「え?」
「毎回菅原の家ばっかじゃ悪いし、ちょうど今週の土曜、私のお父さんとお母さん二人で親戚の結婚式行くんだって。静かだし、勉強も捗るでしょ?」
 一度やる気スイッチさえ入れば、なまえもすっかりその気になって、得意げに提案をする。けれど菅原はまるで石化したように動かない。開いた口は塞がらず、そのままだ。
「菅原?」
 なまえに呼ばれて、菅原はすぐ何もなかったかのように元通りの笑顔を浮かべ「あー、ごめん、なんでもない」と教科書をパラパラ捲る。
「……やっぱ気付いてないよなぁ」
 溜息をついて、なにかを諦めた様子の菅原になまえは不思議そうに首を傾げ、菅原はそれを見てもう一度小さく溜息をついた。菅原は何を言っているのだろう。数秒考えてみるも、なまえは自分の頭の悪さ故に、菅原が自分に呆れているのかもしれないという結論に達したのだ。だからこそ、最終的にはまあいっか勉強がんばるぞなんて呑気な考えばかり浮かんでくるのだった。



 と、なまえが以上の出来事を簡潔に友人に説明したところ、まずは先ほど菅原がしていたのと同じように溜息をつかれてしまった。それから苦笑いもされた。なにかおかしなことを言っただろうか、と自分の言葉を思い返すが、思い当たるところはない。
「菅原くんもこれじゃ苦労するわね」
「あー、そうだね〜。もう何回菅原の家にお邪魔させてもらったかわかんないもん。私ってなんでこんなに頭悪いんだろうね」
「違う」
「え?」
「全っっっ然、違うんだけど」
「違うって、なにが?」
 わけがわからずに尋ねると、なまえの友人はとうとう我慢の限界とばかりになまえの頭をぐりぐりと押さえつけた。彼女はなにかを言いかけ、それから口を閉じる。照れているのか、伏せた頬が朱に染まっていた。一体全体なにを言われるのだろう、となまえも身構えてしまった。
「あんたと菅原くんは付き合ってるんだよね?それももう一年ぐらい」
「うん、まぁそうだね」
 さらりと答えると、友人はなにかを察したように困った顔をさらに困らせた。一応付き合っているという状態は自分でもよくわからないが、恋人というよりかは菅原がなまえのお母さんで、なまえはそれに面倒を見てもらっている子どものような関係なので、あまり付き合っているという実感がわかないのかもしれない。とはいえ休みの日にはしばしばデートに出かけたりもするし、誕生日にはプレゼントを贈り合ったりもするし、好きだと言われたこともある。キスだってもう済ませている。
「付き合ってる男女が、二人きりで、しかも親のいないところで一晩明かすって……」
 そこから先は言葉にならない。休日、普段は家にいるなまえの両親は親戚の結婚式で不在にしている。つまり、二人きりということだ。密室。勉強。なまえは一瞬言葉を失った。男女、二人きり、親のいないところ。友人の言葉を頭の中でぐるぐる回転させながら、ぱちくり、とひとつ瞬きをすると、頭の中で木魚が鳴った。ちーん。
「え、ええええええええええ!?」
 友人の呆れ切った表情と、菅原の溜息の理由がようやくわかった。勉強ができないことに呆れていたのではなく、その状況の意味に気づかないなまえに呆れていたのだ。自覚した途端に顔が真っ赤に染まる。それと同時に、思い出す。前回の勉強合宿のこと。菅原がそれを提案したとき、私は何も考えずにただ合宿という響きのかっこよさから、やるやる!なんて超ノリ気で菅原の家に泊まりにいった。よくよく考えたらあれも……。それだけじゃない、あんなこともこんなことも……。一度考え出したら止まらない。
「わ、私、そそそんなつもりじゃっ、ただ、べ、勉強……するだけで!」
「やっぱり気づいてなかったんだ」
「うっ……」
 友人の鋭い目つきに、なまえは言葉を詰まらせた。私はやっぱり馬鹿だ。正真正銘のアホだ。親のいない自分の家に泊まりに来てだなんて(多少の語弊はあるけれど)、なんて誘いをしてしまったんだ。なんで今まで気がつかなかったんだ。
「まぁ、あんたのことだから、ほんとに勉強のことしか考えてなかったんだろうけど」
「……はい」
「菅原くんの気持ちもちょっとは考えてやんなよ?」
 もう相当生殺しされてるだろうし、と付け足されてドキリとする。そうだ。肝心の菅原はどうなのか。軽々しく親のいない家に招待したなまえに、彼だってなにか思っているに違いない。そんなつもりではない、と弁解したいけれど、自分からそんなことを言う勇気は毛頭なかった。どうしたらいいのか。
「ガンバレ」
 友人の楽しそうな微笑みはどこか意味深だった。



 そんなこんなで、どうしたものかと考え込んでいるうちに、気づけば土曜日がやってきてしまった。時間とは無情なものだ。まだ、心の準備もできていないというのに。ピンポーンというインターホンの音にここまで体が震えたことがあっただろうか。
「い、いらっしゃい」
 やけに重たい玄関の扉を開けると、菅原がひょっこりと顔を出した。ここまではいつも通りなのだが、精神状態はまったくいつも通りではなかった。菅原がなまえの家に来ることはこれが初めてではないし、今までだって何回もあった。それなのに、今とてつもなく緊張している。部屋をもう少し片付けたほうがよかっただろうかなんて二階を気にしてしまうほどだ。ともかくなまえはぎこちない挨拶をして彼を自分の部屋に招待した。
「なまえ」
「はっ、はいっ?」
 部屋に入ってすぐ名前を呼ばれて、どこから出たのかも分からないような上擦り声で返事をすると菅原は「なんだ、その声?」と小さく笑った。まだそこまで動揺は悟られていないようだけれど、こんなことでは時間の問題だなと思う。振り向くと、菅原の手がなまえのほうにゆっくり伸びてきて、そのまま目の下にそっと触れた。あまりにも自然な動きだったので、なまえは驚くタイミングすら失った。
「クマできてる。もしかして、昨日遅くまでやってたのか?」
 こうやって菅原がなまえに触れるのは、よくあることだ。一年も付き合っているのだから今更恥ずかしがる必要なんてどこにもないことはなまえにも分かっていた。それでもふと、先日友人に言われたことを思い出し、かあっと頬が熱くなる。心臓がバクバクとうるさいくらい拍動していた。
「ま、まあね」
 正真正銘、真っ赤な嘘である。昨日夜更かしをしていたのは嘘ではないが、その理由は決して勉強などではない。今日のことが気がかかりで寝付けなかっただけだ。
「よーし、珍しくなまえもやる気だし、早速だけど勉強はじめるか。時間もったいないしな」
「そ、そうだね」
 なまえはぎこちなく頷いて、自分の副教材とノートを開いた。
 勉強の仕方はいつも通り、副教材として配布されている数学のワークを進め、なまえがわからないところは菅原に聞く、という進め方だった。菅原は楽々とワークを進め、スラスラと流れるように回答していく。授業中にも進めているから、もうすぐ一冊が終わってしまいそうだった。なまえはといえば、うんうんうなりながら肝心のワークはあまり順調に進んでいない。なまえはちらりと菅原を盗み見た。
「どうした?わかんないとこあったか?」
 盗み見たつもりだったのに、ばっちり目が合ってしまった。
「えっ、あ、こ、ここの問題が」
 どのページなのかも、どの分野のどの問題なのかも分からないまま適当にワークを指差す。菅原はその問題をしばらく見つめてから、
「これは因数分解して、Xをこうすれば、答えと一致するだろ?」
 シャープペンをコツコツ、とノートに叩きながら的確な解説をされても、この問題を解いていたわけではないし、普段より少し近い距離に心臓の鼓動が早くなり、落ち着こうと思って胸に手を置いてみたが逆効果で、肌が赤く色づくのも、心臓のどきどきも、止まらなそうだった。問題を解するどころか、菅原の話自体を集中して聞けてすらいない。
「なまえ、聞いてる?」
 顔を覗き込まれ、恥ずかしさから目を逸らしてしまう。
「えっ、あっ、聞、……いてませんでした」
 はぁという何度目かも分からない溜息が、なまえの耳に響いた。
「なまえ、なんか今日変だけど。どうしたの?」
 菅原はなまえに会ったときからずっとなまえの態度がおかしいと気付いてはいた。ただ、その理由はさっぱりわからなかったし、聞いたところで答えてくれないだろうと諦めて勉強に臨もうとしていた。ただ、肝心の勉強にもここまで集中力が欠くとなると、黙って見過ごすわけにもいかないだろう。思い切って尋ねてみると、なまえは喉元に言葉を詰まらせた。
「あの、その……」
 きょとんとした顔を向けると、次第になまえの頬が朱に染まる。一体なんだというのか。こんな挙動不審ななまえを見るのは初めてで、菅原がよくわからないままでいるとなまえはもじもじと指を組む。
「きょ、今日、私が菅原を招待したの、別に変な意味じゃないから!!」
「え」
「ほ、ほんとに真面目に勉強するために、だから……!!」
 顔を真っ赤にしてぶんぶん手を振りながら言い切ったなまえに、菅原はぽかんと口を開けていた。しばらく思考が停止して動作も止まる。「変な意味」の内容が脳内にインプットされるのと同時に、菅原は
「あー…」
 何からどう言おうかと、頭を抱えた。だって、まさかあのなまえがこんなことを言い出すなんて、思ってもみなかったのだ。なにせ、昔自身の家に平気で泊まりにきたようなやつだ。菅原が一人悶々と悩んでいたことも知らず、勉強食事睡眠とまさに「合宿」そのものだけ済ませて帰っていった女だ。今回だって同じだろうと菅原は思っていた。だから自分も変に気にする必要はないかと割り切っていたのに。
「なんもしないよ」
 とりあえずこれだけは伝えておこうと菅原は頭を掻きながら、少し顔を背ける。赤くなっている顔を見られるのも、動揺しているのを悟られているのも嫌だった。誤解を解こうとしたなまえは机の上で恥ずかしそうに顔を伏せていて、菅原の声を聞くとおそるおそる顔をあげた。なまえは、「なんもしないよ」の意図を理解すると首から順番に赤くなった。
「ていうか、前俺の家に泊まりに来たときからなんとなくわかってたし。なまえがそういうのに疎いってこと」
「うっ……ご、ごめん、ね……」
「いいって。お前が馬鹿で超鈍感で無自覚で無防備すぎることくらい、わかってるから」
 なんだか色んな言葉が付け足された気もするが、全て間違ってはいないので、なまえにはぐうの音も出なかった。
「私ってほんと、馬鹿にもほどがあるよね……いつも迷惑かけて本当にごめんなさい」
「いいってば」
 しょんぼりと肩を落とすなまえに、菅原は首を振る。子犬のように小さくなってしまったなまえがなんだか少しおかしくて、小さな笑みが溢れる。なまえはそんな菅原にぽん、と頭に手を置かれ、もう羞恥心の限界はすぐそこだった。
「なまえは、そのままでいいから」
「でも」
「まあ俺も男だから、期待しないわけじゃないし、勘違いもするけどな。あと、ちょっと心配なんだよ」
「……心配?」
「俺以外のやつにもそういうふうに無防備にしてるんじゃないかって」
 なまえは、そこでようやく菅原の顔をじっと見た。その言葉の意図を汲み取ると、自分でも単純だとは思うがやけに嬉しくなってしまった。「ふふ」今度はなまえが笑みを零す。突然笑うなまえはちょっと不気味で、菅原は訝しげな目を向ける。どうやらなまえは、非難されているとは思っていないらしい。非難しているつもりもないのだが。
「私には、菅原だけだよ」
「…………」
 なまえもこれだけは伝えておこうと、菅原のほうを見てしっかりそう言った。そしてこれにて話は一段落ついただろうと勝手な解釈をし、今度こそペンをしっかり持ってワークに目を通し始める。
「なまえ」
 菅原が含みをもった声色でつぶやいた。なまえが声のほうに顔を向けると、予想以上に近いところに菅原の顔があった。ペンを持つ手を握られて、そのまま菅原がぐっと乗り出してきたからお互いの顔は更に近くなる。
「え?菅原どうし、んっ」
 ちゅ、と音がして一瞬だけくちびるが塞がれた。突然のことになまえは目を白黒させる。ふわふわとした感触はたぶん、確かにくちびるで。つまり。
「これでチャラな」
「え?ちゃ、チャラって、な、どういうこと」
「今まで生殺しされた分」
 顔を真っ赤にさせ口をぱくぱくして慌てるなまえを尻目に、菅原は有無を言わせない笑顔を向ける。なまえには、菅原の言葉の意味がはじめはよくわからず、ただ疑問符を浮かべるばかりだったが、友人の「菅原くんも相当生殺しされてるだろうし」という言葉を思い出し、ああ、と色んなことを察してしまった。
「よし、勉強するぞー」
「……はい」
 諦めて溜息混じりに返事をする。せっかく気持ちを打ち明けて集中できるかと思ったのに、これじゃあ逆効果だ。なまえは既に勉強に取り掛り始めた菅原を見て、己の余りにも色んな方面において馬鹿すぎるところをこれから少しずつでも直していかなければいけないなと深く反省した。でも、直す前にいつか本当に愛想を尽かされたらどうしよう。そんなことを考えたら一気に不安が押し寄せてきたが、どうしたらいいのかなんて自分でもわからない。なまえには、菅原がいない毎日なんて考えることができないのだ。だからせめて、今はこの目の前にある数学の問題と戦うしかないだろう。なまえはもう一度、ぐっと強くペンを握り締めた。
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