企画 | ナノ
目が覚めてすぐに見えたのは美しい装飾がされた天井だった。
花の模様が描かれた天井に人目で高級だとわかるシャンデリアが下がっている。美しく光るクリスタルを眺めて、高く売れそうだと考えたところでリタはハッとした。
なぜ、こんな場所にいるのだろう。
驚いて上体を起こすと額に乗せられていた濡れタオルが落ちてきた。
それを握って、自分がねていた場所を確かめる。
ふわふわで体が沈み込んでしまいそうなほどに柔らかなベッドも無駄に大きい。布団こそ白で統一されたものだが、ベッド自体は高級な木で出来ているのが一目でわかった。
漸く回り出した脳がリタに答えを教える。
そうだ。ここは、あの騎士の家だ。
このご時世騎士は貴族出身のものがほとんどだ。法を司るはずの騎士が、貧民の気持ちなどわからない上流階級の人間で埋め尽くされているため、貧民たちにはいつまで経っても救いはない。
だからこそ、騎士は貧民にとっての敵なのである。
こんな高級ベッドで、彼らは幸せに寝て過ごして、自分のような子供を誘拐して奴隷にしたり売り払ったりするのかと思うと怒りがこみあげてきた。
こんなベッドに寝ていられない。
立ち上がって、ドアからではなく、窓から出ようとリタは外を確認した。
シンプルではあるが、広い中庭だ。幸いここは一階だ。簡単に抜け出すことができる。
窓の鍵に手を伸ばしたとき、ドアを誰かがたたいた。
「起きたか? 入るぞ」
寝ていると思っていたのだろうか。一応といった確認のあと、すぐに入ってきた彼にリタは逃げ切ることが出来なかった。
窓の鍵を開けて、外に飛び出す背中をねらわれる可能性もある。敵に背を向けることほど恐ろしいことはなく、リタは窓を背にして固まった。
「起きていたのか」
明らかに逃げだそうとしていたのがわかるはずなのに、騎士は感情の起伏が感じられない声でそう述べて、こちらに近づいてきた。
なにをされるのかわからない。リタが身構えていると、差し出されたのは剣ではなく、水の入ったコップだった。
「そろそろ起こして飲ませようと思っていた。水分をとらなくては危険だからな。熱はどうだ」
「あ、だ、大丈夫」
殴られるとばかり思っていたリタは水を受け取って、ぽかんおしたまま彼を見上げる。
黒い髪の間から碧の片目だけが覗いている。その瞳の色は深いのに、彼の心情は全く感じられなかった。
この人は空虚だ。なにが彼をそうさせるのかはわからない。だが、リタは、この目を見たことがあった。
飢え死にしそうになっている人、愛する人を疫病で亡くした人。あきらめた人間の瞳だ、とリタは思った。
「どこかに行くのか?」
怒っている風でもなく、散歩に行くのかを訊ねているような聞き方だった。
「あんたは、あたしを売る気? それとも、奴隷にでもするわけ?」
「それが望みか」
「そんなわけないじゃない! なんであたしを助けたのか聞いてんのよ。スラムのがきんちょを騎士様がなんのメリットもないのに助けるとは思えないんだけど」
「メリットか」
リタの問いに騎士は顎に手をやって、考え込むように視線を落とした。
そんなことを考えたこともなかったかの様子にリタは瞳を眇める。
なんの得もないのに、そんなことはあり得ないだろうと思っていた。
「理由は興味があったからだ。それにおまえは生きたいと言った」
「それだけなわけ?」
「そうだな……。強いて言うなら、もう人が足掻きながら死ぬところは見たくなかったというところか」
「貴族様がそんなの見た経験あんの?」
「戦争はそういう死が蔓延している。俺もあそこで全てをなくした」
淡々と語るその声が余計に痛々しく聞こえた。
リタはしまったと思っていた。申し訳ないなどとは思っていなかったが、悪いことを聞いたくらいには反省していた。
先の戦争は数え切れないほどの死者が出た。特に最前線で戦った者は、正気を保てた者の方が少なかったと言う。
あの戦争以来スラムにも人口が増えたのだ。リタもその戦争で両親を亡くし、あの街に転がり落ちた人間のひとりだった。
「あの街に帰るのか?」
リタが作った沈黙を騎士が破った。
気まずさを打破しようというものではなく、本題に戻ろうと言った雰囲気だ。リタは、少し考えた。
人を見た目や最初の言葉だけで判断するなというのは、あの街で身につけた知識のひとつだ。だが、この男は悪い人間には見えなかった。
それにこの様子だと、「帰らない」と言えば、ここに置いてくれそうな気がする。
ここは貴族の家だ。金は有り余っているだろうし、食事に困るようなことも、街で泥に沈むこともきっとない。
この屋敷に住み込めるなら、それは幸せな幸せな話のはずだ。
「ここに居ても構わん。うちにはメイドがいない。助けた以上、おまえの身柄の安全に俺は責任がある。手持ち無沙汰で暇だろうからな。ここに居るなら、仕事をやる。給料もやろう。だが、帰るというなら、それでも構わない」
淡々とここに残る道と貧民街に帰る道の説明をしたシュヴァーンが最後に「どちらか選べ」と付け足した。
あの街から抜け出したかった。それが、リタの人生のまず最初の目的だった。それから先はまた考えようと、いつも思いを馳せた夢だ。
リタは、決意して頷いた。
「あたしは、ここに残るわ。でも、奴隷扱いするならば、すぐに逃げる。その辺、覚悟しときなさいよ」
顎をツンとあげて、そう言うと騎士は「そうか」と頷いた。
「俺はシュヴァーンだ。騎士団隊長主席をやっている」
「あたしはリタ」
表情のなかった顔が一瞬少しだけ緩んだように見えた。
* * *
屋敷で働くことになったリタの人生は一変した。
朝早くに仕事に出かけるシュヴァーンのために朝は朝食づくりから始めることになった。
だが、リタはスラム育ちなのだ。料理などしたこともなく、適当に作った初挑戦の料理はもはや料理とも呼べない何かになっていた。それを朝食に出されたシュヴァーンは一瞬固まり、リタの顔を一瞥してから、おそるおそる一口口にいれ、そして、倒れた。
掃除もリタは苦手だった。シュヴァーンに言いつけられて、シュヴァーンのいない間に彼の執務室を掃除したときは、置いてあった書類はぶちまけるわ、本棚の上の埃をはらおうとして、本棚をひっくり返すわで余計に散らかった。帰ってきて、ひどい有様の部屋の真ん中で座り込んでいるリタを見たときのシュヴァーンは何を思っていたのだろう。ただ、ぽかんと口を開いたあとに、口角をあげ、押し殺したように笑いながら「怪我してないか?」と一言だけ聞いて、片づけを手伝ってくれた。
空虚でなんの感情も感じられなかったシュヴァーンは生活をともにしていくうちに、だんだんといろいろな表情を見せるようになった。いたずらっぽい表情で笑っていたときなど本当に驚いた。こんな顔も出来るのかと思って、次にこの胸のつっかえるような感じはなんなのだろうと首を傾げてしまった。
穏やかな日常だ。スラムで誰かに追いかけられ、誰かを追いかけていた時代とは違う。
服も美しいものをもらったし、食事も毎日おいしいものが食べられる。生ゴミを漁って、喜んでいた時が懐かしいように思えるほどの時が過ぎた。
ある日、屋敷を誰かが訊ねてきた。
「はい」
シュヴァーンがいない昼間の来客をもてなすのがリタは苦手だ。玄関を出て、短くそう言って用件を話せというオーラを放つ。
何度か接客はしてきたが、シュヴァーンは文句を言ったことはなかった。「それでいい」と言って、なにも指導はなかったのだ。無愛想だろうが、この態度を帰る気はない。
玄関の外に立っていたのは美しいドレスを見にまとった女だった。
羽がたく さんあしらわれた扇で口元を各紙、縦に巻いた金髪を揺らして、彼女は可愛らしい顔をわずかに傾けた。
「シュヴァーン様はいらっしゃらないの?」
「仕事です」
「あら、残念。せっかく、お供もつけずに会いに来たというのに」
「なにか用ですか」
これだけ言っておけとシュヴァーンに言われているテンプレの言葉を言う。
用件だけ聞いて置いて、あとは主人がいないからと言って追い返せばいいらしい。
彼女は、少し考えて、扇を閉じた。
「仕事を邪魔するのも悪いですし、あなたに伝えておくわ。今度のパーティー。是非私を踊って、私をお選びになってくださいとお伝えしておいてくれる?」
パーティー?
心の中で不思議に思いながらもぎこちなく頷くと「ではごきげんよう」と可憐に挨拶をして彼女は帰って行ってしまった。
パーティーとはなんのことなのだろうか。選ぶとはなんなのか。
考えていると、最近シュヴァーンにため息が増えたのを思い出した。
「辛いの?」と聞いたのは戦争のことを思い出したのではないかと思ったのだ。リタも両親が散っていった姿を思い出すと、苦しくなるときがある。
仲良くなるうちに戦場での惨状をぽつりぽつりと話してくれたシュヴァーンは自分をいつも責めているようだった。「なぜ俺が生き残ったのだろうな」と苦しげに言っていたのを思い出しての心配だった。
最近は「戦争の傷も少しずつ癒えてきた」と言っていたが、また苦しくなったのだろうかと思っていたのだが、彼はリタの問いに首を振った。
「リタが来てから、苦しくはなくなった。生きる意味がわかってきたきがする。ただ、ちょっとな」
そう言ってごまかしていたシュヴァーンの表情を思い出す。
言い方は柔らかかったのに、妙に堅かったあの声はなんなのだろう。
リタは疑問を抱えたまま、屋敷へと戻った。
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