企画 | ナノ


 口の中に泥の味が広がった。
 舗装されていない地面を濡らす雨に身を晒してリタは死にかけていた。
 泥に突っ伏し、せき込む。舌の裏にまで入り込んだ泥はそう簡単にはとれてくれなかった。
 頭痛は収まらない。
 寝床にたどり着くことも出来ず、リタは泥をひっかくように握りしめた。
 立派な建物など一切ない、あばらやが転々と立つ街は薄汚れていた。
 ゴミの山がそびえ立ち、裏家業で手に入れた金で買った食料を子供に盗まれて追いかけ回す声が響く。
 雑然としたその街も雨が降れば、少しは静かになる。煙るほどの雨ならば、泥棒もしやすくなる。生き延びるために子供たちは大忙しになるのだが、この程度の雨では寒さをしのぐために寝床で身を寄せ合っているのだろう。
 泥まみれの貧民街でリタに手を差し伸べる者はいない。
 優しい、優しくないの問題ではないのだ。手を差し伸べる余裕を皆持ち合わせていない。
 自分が生き残ることすら難しい世界なのだ。こどもは時折来る小綺麗な格好の大人たちにいつ売り払われるかわからない。大人はいつ誰にだまされて有り金を奪われるかわからない。この世界では真っ当な人間であればあるほど生きづらいのだ。
 先ほどから何人かの人間がここを通っていったが、皆立ち止まることはしなかった。「こりゃ手遅れだな」と呟いて去っていった男もいた。
 そんなことはリタが一番よくわかっていた。
 生き延びたいと何度も立ち上がる努力をした。だが地面を押す細腕は上体を少し持ち上げることしか出来なかった。
 こんなところで終わりたくない。
 ぐらぐらと揺れる頭が辛い。
 こんな浅い泥沼におぼれかけているなんていやだ。
 まだ生きていたかった。まだ夢があった。この退廃的な世界を抜けだし、盗みも詐欺も働かず自由に生きてみたい。
 リタは、もう一度地面についていた手に力を込めた。
 がくがくと震える腕がなんとか上体を起こす。
 どうにかして暖まれる場所に行けば生き延びることが出来るかもしれない。それに賭けていた。
「はっ、う、ぐ」
 ずるりと泥に手が滑った。
 体を地面にたたきつけられ、リタはうめいてせき込む。
 朦朧としてきた意識を必死につかんで、リタがまた泥を握りしめたとき、雨がやんだ。
 いや、正確にはリタに降り注ぐ雨だけが遮られた。
「え……?」
 突然さした影にリタは小さく声をあげて、首だけ動かした。
 どういうことなのかよくわからないが傘をさしてもらっているらしい。
 頭上に見えたブーツは騎士のものだった。
 そのブーツを確認した瞬間リタは無意識に身を縮めていた。
 とっさに捕まると思ったのだ。
 騎士は貧民街の住民にとって敵だ。
 税金を無理矢理徴収する者や子供を逮捕するとして連れ帰り、そのまま売り飛ばしてしまう者もいると聞く。
 リタは死にたくはなかった。ここまで努力してきた命をこんな騎士に好きにされるなんてたまったもんじゃない。
 ぐっと奥歯を食いしばって、リタは逃げようと努力したが、地面についた手はやはり泥に滑り、リタは逃げることは出来なかった。
 黙っていた騎士が、動いたのがわかった。
 影が動いて、そいつがリタの頭上にしゃがみ込む。傘をこちらに傾けたまま、その騎士は聞いてきた。
「そこまでして生きることに意味はあるのか?」
 ぽつりと訊ねられた問いは、不思議そうなものだった。
 抑揚があまりなく、感情はあまり感じられないのだが、その問いかけには理解できないという心境が込められているのが感じられた。
 騎士様にはわからないだろう。
 リタは悔しくて、口を開いた。
「生きたいから、あたしはっ生きてる。意味なんて、後からいくらでもつけられるわ。生き延びてから、考えればいい」
 浅い呼吸を間に挟みながら必死に答える。
 怒りを存分に伝えてやったつもりだったが、弱った声ではそこまでの迫力はなかったに違いない。それがまた悔しい。
「おまえはどんな手を遣ってでも生き延びたいのか」
「誰かの命を奪う以外の方法ならね……」
「そうか。なら、憎き騎士の手を借りてでもか」
 低い声は挑発している風ではない。
 確認の様だった。
「泥に沈むことをよしとした騎士が、泥の中であがくおまえを救うことを許してくれ」
 雨音に溶けるような声だった。
 限界を迎えていたリタは必死で意識をたぐり寄せたが、その甲斐なく、意識の糸は途中でぷつりと途絶えていた。
 落ちるように意識がなくなっていく。
 最後に濡れた頭にそっと触れた手の平が暖かかった。

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