企画 | ナノ
買い物係に任命され、宿の外にでた時から灰色の空にいやな予感はしていたのだ。共に買い物係に任命されたレイヴンもいつもは美しいダングレストの珍しく冴えない空に「こりゃ降りそうだわ早く帰らないとまずいかもしれんね」と独り言のように隣で言っていたのを思い出す。
買い物係は2人とも雨が降りそうだということは分かっていたのだ。だが、その雨がこんなに早く、しかも激しく降り始めるとは予想していなかった。
「こりゃ、帰るの無理なんでない!?」
「どうすんのよ! このままじゃ確実に風邪引くわ!」
バケツをひっくり返したような雨とはこのことだ。
ざあざあというよりもどおどおという擬音が当てはまるような尋常ではない雨に晒されて、リタは店先の外に出っ張った屋根の下にいるというのに、リタと同じく水浸しになっているレイヴンに叫ぶ。
声を裏返して「参ったね」と言うレイヴンにリタもため息を吐いた。
ここから宿までは、そう遠くはないがこの当たれば痛いようなひどい雨の中は帰れない。
背後の店の窓を振り返ると、この豪雨に雨宿りをする客でごった返していた。
「ここで待つわけ?」
買い物したものを入れた紙袋は既にびしょ濡れだ。穴が開いて中身が落ちるのも時間の問題だろう。レイヴンに当たっても仕方がないのだが、この苛立ちのぶつけどころがほしかった。
とげとげしい声でレイヴンに「どうすんのよ」と尋ねる。レイヴンにどうするかを委ねるのもおかしな話だったが、リタにはこの状況を変える名案は思い付かなかったのだ。
「んー」と小さく唸っていたレイヴンはリタの抱えている紙袋よりも二回りは大きい紙袋を片手で抱え直し、羽織の内側へと手を突っ込む。「ちょーっと待ってよー」と呟いた後、彼が「あったあった」と取り出したのは鍵だった。
「なによそれ。宿の?」
「違う違う。レイヴン様のおうちの鍵よ」
ふふんと得意げに顎を軽く上げて言ったレイヴンにリタは一瞬ぽかんとしてから「ああ」と小さく呟いて納得した。
なんとなく風来坊のレイヴンのイメージからか、彼が一所に留まるイメージがなかったのだが、レイヴンはもともとダングレストの人間だ。故郷だと本人が言うダングレストに自宅がないわけがない。
「近いわけ?」
「実はすぐそこなんよね」
「なんでもっと早く言わないのよ!」
「いや、だって、リタっちだって一応女の子じゃない? 家に入れるとなると抵抗が……」
「はあ? いいから行くわよ。あと風呂貸して」
「……はーい」
足取り軽くレイヴンの指した方向に歩き出したレイヴンの「いきなりハードル高いっての」という声はリタの耳には届かなかった。
***
レイヴンの家は存外片付いていた。
長いこと帰っていないと言っていた通り、埃っぽい場所もあったが全体的に物が少なく、広い部屋を更に広く見せている。
レイヴンが開けたドアを自宅のように入っていったリタは廊下をまっすぐ突き進んで、ドアを開けた。レイヴンがとめないということは問題ないと判断して入った部屋は予想通りリビングだった。
「こーらリタっち。びしょびしょで入んないでちょうだいよ」
「仕方ないでしょ。拭くもんないし」
「ちょっと待ってて。持ってくるから」
レイヴンが荷物を置いたテーブルにリタも荷物を置いて、部屋を見渡す。
本当に物がない。必要最低限の生活できるものしか置いていない部屋は、ただ生かされていたレイヴンの生活を思わせた。
レイヴンが開けっ放しにして出て行った廊下へと続くドアを見遣る。
ここに来るときに通った廊下には確か3つほどのドアと階段があった。一人暮らしにしてはいい家に住んでいるが彼は金の使い道がここしかなかったのだろう。遊んでいるように見えて
、影で様々なことをしている男だ。金を使う暇もあまりなかったはずだ。
リタはリビングを一通り見まわして、自身がびしょ濡れだったことをはたと思い出した。雨に降られていたときは気にしていられなかったが、室内に入ってみるとこの肌に衣服が張り付く感じが気持ち悪い。襟に人差し指をひっかけて、肌と衣服の間に隙間を作ってなんとか首元にまとわりつくいやな感じを少しだけ取り去って、リタは廊下へと歩き出した。
「おっさん」
「んー?」
廊下をゆっくりと歩きながら呼びかけた声に、聞こえた返事は階段の上からだった。
ぐるりと回っている階段を襟に指をつっこんだまま上るとすぐに中途半端に開いたドアが見えた。
「お風呂借りたいんだけど……」
「ああ、ちょっと待って。今リタっちでも着れそうなシャツ見つけたから」
中途半端なドアの先からの声にリタは躊躇せずドアを開ける。
そして、少し考えてからすぐに閉めた。
「え、ちょ、リタっち? どしたの? まさか、おっさんの秘蔵本見えちゃってた?」
「な、なによ秘蔵本って!」
「え!? 違うの? じゃあ、お前さんおっさんの肉体美にくらっと来ちゃったな!?」
「黙れ露出狂!!」
「リタっちが先に入りたいと思ってとりあえず着替えてたんじゃない! ひどい! おっさんの優しさが伝わらない!」
着替え中だったなんて思わなかった。
いや着替え中なのはいいのだ。直視したことはなかったが、一緒に旅をしている身だ。
男連中は女がいようが構わず上を脱いで水浴びに行っていたこともある。ただ、場所がいけなかった。
レイヴンが着替えていたのは寝室だったのだ。
リタは全くそういうことを考えていなかった。男の家に入るということの意味をリタは今ようやく思い出していた。
そんなつもりはなかったし、レイヴンもきっとそんな気はない。だが、一度意識してしまったからには、意識せずにはいられなかった。
「リタっちー。着替えたから開けるわよ」
「だ、あ、待って!」
「なんで? リタっちもびしょ濡れのまんまじゃ嫌でしょ。風邪も引くし。お風呂入りたいんじゃ――」
「い、いいから! もう風呂はいいの!」
「はあ? なんかリタっちおかしくない? どうした?」
ドアを両手で押さえて、リタは真っ赤な顔をどうすべきか考えていた。
こんな考えに至ってしまった以上、風呂になんか入れない。
「開けるわよー」
「ちょっと!」
無理矢理開けられたドアにリタはそれ以上の抵抗はできなかった。
ドアの向こうから出てきたレイヴンはリタを見つけて、ふっと表情をほころばせる。タオルを頭に乗せられ、続いて渡されたシャツにリタは顔をうつむけた。
「ま、風呂に入っても入らなくてもいいけど、とりあえず拭いて着替えるくらいしたほうがいいわよ」
手が伸びてきた。いつもの調子で撫でられるのだ。そうはわかっていても体は素直だ。体を強張らせて、半歩後ろに下がるとレイヴンは目を丸めて何か思い至ったように「あ」と呟いた。
「な、なに」
「いや、リタっち、もしかして今更男の家に来たこと自覚してる?」
この反応だ。それに聡いレイヴンにはリタのことなどお見通しなのだろう。にんまりと笑ってリタの頭をタオルでわしゃわしゃと適当にぬぐったレイヴンにリタは不満げな視線を突き刺した。
「なにもしないから安心して着替えて来なさいな。冷えないようにココアでも入れといたげるから」
「ココアなんてあんの?」
「今日買ったやつ開けちまうわ」
言いながらこちらに背を向けて階段に行ったレイヴンは手でこちらからは見えない顔を仰ぎながら去って行った。
「今夜暑いわねえ」
先ほどまでの言動と雨でずぶ濡れになった人間とは思えない発言だったがリタも火照った顔を仰いで返事を返した。
「あんたのせいよ、ばか」
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