企画 | ナノ
新婚さんといえば、というイメージがレイヴンには多くあった。
まずは「先にご飯にする? お風呂にする? それとも私?」というやつだ。実際やっている夫婦がいるのかは知らないし、どこからのイメージなのかすらもう忘れたが、このイメージは強い。しかし、レイヴンの嫁はこれをやってくれるような女ではない。
次に休日のお買い物だ。腕をくんで楽しく笑いながらお買い物。近所のおばさんなんかに会って、冷やかされるなんて妙にはっきりしたイメージもあるのだが、これはどこかでそんなカップルを見たのだろうか。このイメージも出所がどこだかよくわからない。
他には新妻って響きがいやらしい。だとかそういう感じのイメージが多いため割愛するが、大半は「まあ、妄想だな」とは思っている。結婚というものに夢を抱きたかったイメージなのだろう。こんなイメージは遠の昔に幻だというのはわかっている。増してやリタと結婚した時点で、これを期待することがおかしいのだ。
リタとの結婚生活はもったいないくらいに幸せだ。このイメージは全く再現されていなくとも構わない位に幸せなのだ。
さが、この多くあるイメージの中でひとつだけレイヴンはどうしても叶えたいことがあった。
「ただいまー」
「ああ、おかえり」
仕事から帰ったとき、リタは大抵お気に入りの赤いソファーでごろごろしている。本を読んだままごろごろと体勢を変えて、そのままこちらを見ずにおかえりと言うのみだ。
そうレイヴンはこれが気にくわなかった。
唇をとがらせて不満を伝えてみるがリタはこちらを見向きもしない。
普段ならレイヴンはこのまま夕飯の調理にとりかかるのだが、今夜は少し文句を言ってみることにした。
「リタっちー」
「んー?」
「ただいま」
「んー」
「聞いてる?」
「ん〜」
ごろんとまた寝返りをうちながら適当に返事をするリタは確実に全く聞いていない。
流石にむっときた。こんなことで怒るほど、心が狭いわけではなかったが、本の方が大事なのかと情けない嫉妬心がうずいた。
うつ伏せになっているリタと本を隔てて向き合うようにソファーの横にしゃがみ込む。流石に近くに来たのに気づいてか、本を開いたまま伏せたリタと至近距離で目が合った。
「なに? 近いんだけど」
「ねえ、リタっち。おっさん朝、行くときにリタっちに何したっけ?」
「行くとき……? あ、と、いってきます」
「違うってば、わかってるくせに」
「き、す?」
「そうそっち。リタっちはお返しくれないの?」
レイヴンが叶えたかった幻に近い新婚のイメージは『いってらっしゃいとおかえりなさいのキス』だ。
照れ屋のリタにこれを要求するのも少し酷な気もするが、こんな口実がなければリタからのキスなんてなかなかないものだろう。
真っ赤になったリタは本を立てて、また壁を作ってしまった。
「な、なんで、そんなことあるごとにしなくちゃいけないのよ」
「だーってー、すきなんだもん」
「キスが……?」
「ちっがうっての。リタっちが」
「っな、も、無理!」
「なーんでー?」
「恥ずかしいのよ……。キス、近いし」
「近いって、そりゃキスだもん」
「と、とにかく、無理」
「えー」
恥ずかしがりなのは知っている。だめもとという想いもあった。だが、いざ断られると結構ショックだ。
「リタっちのけちー」と言った声は自分が思っていたよりも情けないものとなってしまい、それに気づいたのかリタはそっと本の壁を伏せた。
「そ、んな顔すんじゃないわよ」
「だって、リタっち、おっさんとのキス嫌いみたいだし」
「嫌いなんて言ってないでしょ!?」
「じゃあ、好き?」
「え? あ、ちがっ、うれしそうにすんな!」
「あだっ」
あわてるリタににやにやしていたら理不尽に殴られた。壁だった本は武器にもなるのだ。ゴンっという鈍い衝撃に一瞬頭がくらりとなる。本気になれば魔物すら倒してしまうリタによる攻撃にレイヴンがくらくらしていると、唇に一瞬なにか触れた。
「え、リタっち?」
「し、したわよ。満足?」
「ま、満足じゃない!!」
「なんでよ!」
「だって、おっさんくらっくらしてたんよ? わかんなかったの!」
「くらくらしてるのが悪いんでしょ。もうおしまい。お返ししたでしょ」
「えー! リタっちのけちー!!」
「どうせ、おやすみでまたするでしょ」
「え?」
「え?」
きょとりとしてしまったレイヴンにリタもきょとりと目を丸める。
『おやすみのキス』をレイヴンは全く考えていなかったのだ。そういえば、そんなのもあった。思い出してレイヴンはゆっくりと口角をあげ、リタは見る見る表情をひきつらせた。
「や、やっぱなし! 今のなしよ!」
「だめー、おっさん聞いちゃったもんね。お返ししなくちゃだもんね。おやすみはおっさんで、おはようがリタっち。でいってきますはおっさんで、おかえりはリタっちってことね。一日4回もキスできるなんて、おっっさん幸せだわー」
恥ずかしさからか、なにもいえなくなっているリタに笑ってレイヴンはキッチンへと足を向けた。
おやすみのキスはどんなものにしてやろうか。それを考えると、自然意地悪く口角があがってしまった。
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