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 彼女が部屋に戻ったのにも子供は気が付かなかったようである。数時間前に見た格好のまま、テーブルに座る小さな後姿があった。
 覗き込めば、子供はやはり数時間前と同じことをしていた。彼女が買い与えた八つ切りの画用紙と、クレヨンで絵を描いている。力いっぱい擦りつけるものだから、安いクレヨンはてかてかと紙の上で光り、それ以上色を重ねることは不可能のように見えた。
 いま彼の手に握られているのは緑で、紙には一面の青と大小五つの塊。多くは緑色が塗られていたが、いくつかは茶色で描かれている。てかてかと削るようにされたクレヨンのカスが、小さな右手にも色を付けていた。
「何をしているの」
 一心不乱に、さすがに彼女に気付いただろうがちらとも見ずに子供は描き続けていた。彼女は返事を貰えなかったことには何も感じてない風だったが、手を汚してまで無理にクレヨンを握ることに呆れたようであった。

八つ切りの紙は毛羽立ってもうダメになっている。安いクレヨンではどれだけ色を塗ろうとも歯が立たない。彼の手はどうしようもないほどに汚れていて、握りしめる指は白い。
彼の向いに座って、頬杖を着く。隣の部屋で電話が鳴り、誰かの声でマリィと彼女を呼ぶ。どうかご慈悲をマリィ。お救いくださいマリィ。彼女は今日も忙しいのだ。
「ねえ。どうするのよ、それ」
 てかてかと光る茶色に、何か追い立てられるよう必死に緑を塗る子供。彼女は画用紙とクレヨンを買い与えたことを少し後悔して、電話に答えるため立ち上がり、ため息を吐いた。
「もう救えないでしょうに」

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