息を止めてしまいそうな男がいた。既に視界は曖昧で、輪郭さえぼやけてきていた。左腕は無かった。
男はふと、これまでの自分を振り返った。母と呼んだ女から産まれてきたであろう日から、土の上に横たわっている今までを。
これといって挙げる程、男の生活は恵まれたものではなかった。特出する能もなかった。流れにのって入隊した陸軍も、こうして何でもないような事で、誰にも知られず息絶えるのだろう。
それでも男は、生きていたのだ。下らないかもしれないが、その生を棄てたくはないのだ。吹き飛んだ左腕から流れていくものを、まだ持っていたいのだ。
遠くで聴こえていた銃声がすっかり止んでしまっても、男は手放さないでいた。
代わりに響いた足音に、男は少し安堵する。助かるかもしれない、この足音の主が自分を見付けてくれたなら、まだ息をしていられるかもしれない。そう思った。
近付く音に、少し頭を持ち上げて辺りを見回す。それらしい姿はまだ見当たらないと、男は土に臥せった。
その視界はもはや正しく機能しておらず、認識できなかった足音の主は目の前に立ち尽くしている。
白いワンピースを着た少女だった。男の薄汚れた迷彩とは対照に、まだ汚れのない白。細い腕が、男の、もうない左腕へと伸びた。美しい黒髪が、肩を滑って落ちる。
男は気付かない。視界のみならず、その感覚は残らず彼のものでは無くなっていた。ただ息だけをしていた。短い髪が乾いた血と土で固まり、半開きの目蓋は弱々しく震えている。
少女は、男の左腕に触れた。正確には、左肩に。切れ切れの呼吸が聴こえている。そうして、やわらかい手つきで破れた布を剥ぎ、躊躇なく顔を近付ける。腹が鳴いた。薄い桃色の唇から、ワンピースと同じくらい白い歯が覗いていた。
男は、呼吸を止めてしまいたくはなかった。ひょっとしたら、まだ棄てなくともすんだ命だった。
幸せでなくとも、それなりに楽しい人生だった。まだ生きていたかった。
白いワンピースの少女は、口元を滴る液体を手の甲で拭う。黒い瞳には何も映っていない。
最後に残った青い目玉を、初めと同じ、やわらかい手つきで掴むと、たった一言を呟いて、真っ赤な唇へと運んだ。
「ごめんね、私も生きたいの」
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