企画サイト「手帖」様提出
空は雲で塞がれていて、アスファルトは雪で塞がれていて、一面が白い。視界が閉ざされたみたいだ、と彼は思った。あまり人通りの多くない道は、新雪の所為でかなり歩きづらくなっていた。何年かぶりの積雪は、彼の帰路を遮っている。
ふ、とこれもまた白い息を吐いた。足がもつれそうだ。早く帰ろうと急くから、余計に転けてしまいそうになる。
「さっむいなあ……」
誰にともなく、独り言。マフラーを口元まで引き上げようとした。明るい色の短い髪に付いて融けた水滴が、少し滴り落ちている。
家へ帰れば、きっと暖かい部屋が待っているのだろう。今日でやっと仕事納め、解放されたのだから早く帰ろうと彼は急いているのだ。
――さむい、ね。
ふ、と彼が白い息を吐いたのと同じくらいの速度で、彼に答える声がした。幼い、少女くらいの声音だ。思わず足を止め、彼は辺りを見回した。前、右、左、後、下。何処にもそれらしい人影はない。
――雪は、好き?
少女の声は囁くように続けた。驚いてキョロキョロしていた彼も、やがて落ち着いたように前を向き直す。また白い息を吐いた。
――ねえ、聴こえているんでしょ。
黙ったまま彼は足を進めようとしたからか、声はまた問うように言った。右足がざくざくと雪をかき分けて一歩。
「雪は……あまり好きじゃない」
半ば埋もれ気味の左足が出て二歩。髪から水滴がぽとり。実は少し道に迷っている。何せ目印が何もないのだ。答えてくれたことが嬉しかったのか、声はトーンを一つ上げて笑った。子供がちょうどはしゃぐのに似ている。
――それは、残念ね。
雪は変わらず降り続けていた。しんしんと積もる。二人の声の他に音は無い。ただ、白い空と白いアスファルトと白い息だけが視界を染めていた。
「それはそうと、君は誰?」
家へと急ぎながら彼は聞いた。この状況に慣れてしまったのだろう、何事もないように歩いている。恐ろしく順応性の高い男であるらしかった。
――誰だと思う?
声は楽しんでるようだ。息を吐くのと同じ速度で、子供がはしゃぐように笑った。
ふふ、と彼も笑い返した。初めに口元まで上げようとしたマフラーは、首の辺りでゆるゆると揺れている。少し童顔な彼の顔が寒さで赤い。
「……りさちゃん、でしょう。昔隣に住んでた」
雪でびしょびしょになった手袋で、ズボンを引っ張って足を上げる。操り人形みたいだ、と思いながらまた一歩踏み出した。
――何でわかったの?
空が白から灰色に近付いた。西の方は心なしか橙色になっている。日が暮れかけているのかもしれない。
「声、かな」
ふ、と白い息を吐いた。それと同じ速度で微笑む気配がした。明るい色の髪は汗か雪で濡れて、雫が落ちた。
いよいよ空は暗くなり始めている。早く帰ろうと急いて、また転けそうになった。
――久しぶりに会えたけど、今日は、お別れを言いにきたの。
――ごめんね、ありがとう。
一瞬だけ強く風が吹いた。解けかけてたマフラーが、ついに外れて数メートル先へ飛んでいく。声をあげて手を伸ばしたら前から転けた。
慌てて手をついて顔を上げる。お別れって何、と言おうとして、止めた。声の気配が消えていたからだ。
その代わりとでも言うように、目の前の雪道には赤い斑点。途中にマフラー、また赤い斑点。どうも遠くまで続いていそうだった。
はいはいの要領で斑点に近付いた。赤い、椿の花だ。まだ少し季節には早いだろうに、それがいくつも等間隔に並んでいる。
もしかして、道標のつもりなのだろうか。辿っていけば帰り着けるのだろうか。一つ花を手に取った。まだ痛んでおらず綺麗だ。
「うん、ありがとう」
またね、と誰にともなく独り言。目印を拾いながら彼は家路を急いだ。
雪の日 - back