大蛤
煩悩は洗えば落ちるのだろうか。珍しく乗り気なクラスメートに習うようにして靴を脱ぎ、木綿を剥いでから学生ズボンの裾を捲った。流水の温度が人肌くさい。
胡座で座したくわえ煙草に上がる煙は火が点いて少し過ぎたもの。僕が知っているだけでも今日はこれで三本目になるとおおよそ記憶しているが、風向きとは逆に煙が流れる様子を見るのは多分、初めてだと思う。
「ナマエ」
「ん」
「君だろ」
承太郎を挟んで向こうに座るナマエの気だるい返事があった。脚気の検査をやったみたいに色の綺麗な裸足が跳ねて、ガンジス川支流の水面に消えた。ナマエの素足を見たのはこれが初めてかもしれない。初めてだ。どきどきする。意識しすぎだ。曇った空気が肺に刺さって、僕は何度か咳をする。
「ナマエ」
「いやよ」
「イヤよ。じゃあないよ、頼むから」
ふふん、と気の抜けるような声がして、大きな肩が何度か揺れた。
「なんだい、君まで」
「いや」
承太郎が煙草を摘んで煙を吐き出す。
「へたくそだな、お前。ナマエの真似」
紫煙はまだ、風向きと逆に僕の側へとやって来る。
真実はおれしか知らない。およそ巡り合わせが悪かったとしか言いようがないし、いくら考えを巡らせたところで掛ける言葉は見つからないのだ。
ナマエがカルカッタの道端で転ぶに至った原因や、その際に何を踏んだかなどを蒸し返すのは野暮な連中のすることだ。あの頑固なナマエが、口を開いて一言目に、あれだけ嫌がったはずの沐浴(ただし、それでも足だけ)をすると川面の岸へ真っ直ぐに歩いてみせるのだから、件のあれにはおれの想像さえも超えるほど強い存在感や威圧感などがあるのだろう。とても想像しようとは思わない。
「そもそも、君が煙草を止めればいいんだ」
「やなこった」
三分の二ほどが灰になっていた煙草を摘まんで花京院から伸びる手をかわす。砕けた燃えカスが水面に落ちて、流れの先で白い足首に汚れをつけた。胡座の足を組み替えたところで、こちらを見上げるナマエの視線。言いたいことは分かっている。
「私、転んでないよね?」
「ああ」
「見てない?」
「何も見ちゃいねえぜ」
「そう」
ふう、と溜め息を生んだ横顔で唇が弧を描く様を窺えて、普段より多い煙を吐いた。有害物質の摂り過ぎだ。ただの偶然。偶々抱きついたくらいで、どうした。つまらないことでライバルが増えたように思えて気が気でないのだ。
煙の流れは風に逆らう。なぜあの時おれは、ナマエの利き手の側にいなかったのか。
靴を買おう。今度から予備を持ち歩く。絶対にだ。
真実なんてなかった。私は何も踏んでいないし、転ぶだなんて、とんでもない。それが私の認識で、この世でただひとつの事実に間違いないのだ。だから私が私らしからぬ、格好の悪い悲鳴を上げて花京院に抱きついただなんて不純な噂を流すのは、野暮な人間のやることだ。
思うところを察したらしい承太郎は黙って煙を作っていた。風向きに対して逆にたゆたう空気の流れは私が操作をしているもの。代わりに被害を受けるのは、向こう側にいる花京院だろう。知らないふりをするに限る。
ただしスタンドの緑が見えたから、そろそろ限界かもしれない。
「ナマエ。良い加減にしないと」
ほら、来た。
「しょうがないな」
煙を侍らせる私の幻影。紫煙とはまた違った気配が辺りにじりりと湧いて出て消える。花京院からこぼれた小さな溜め息と、承太郎の吐く煙草の煙が風に乗せられやって来る前に、火種は押し潰されてしまった。
「不公平だろ。僕が言っても止めないくせに」
君はナマエに甘過ぎるんだと聞こえた苦言に、笑顔とピースで答えてみせた。