28


 嫌悪感の塊が。
 オランウータンが立っていた。
 正気を疑った。

「なん、で」

 どうしてこんなところにいるのか。逃げ出してきたのか。鍵付きの檻にいたはずだ。ここから離れた部屋にある、檻の中で。
 裸の女性が載った雑誌を眺めていたんじゃあ、なかったか。

「ねえ、ナマエ?
 何かあったの?」

 “家出少女”が背後でカーテンを開けて、しまった。大猿と目が合った。少女の呼吸が止まった気がした。我に返った。握った石鹸を振りかざす。
 投げた。

「『迷い子羊』!」

 相手の注意が一瞬逸れる。呼ぶなりガツンと蹄が鳴って、死角に浮き出た羊が矢のような速さでぶつかった。すぐに起き上がったオランウータンは私と羊を交互に睨む。
 怯えて逃げてはくれなかった。

(何とかして追い出さないと)

 たったひとつ。逃げ道が塞がれているのはいただけない、と考える。鋭い声音で羊が鳴いた。初めと同じ手はきっと使えないだろう。かといってシャワールームでは狭すぎて、ビー玉の波を撒き散らしたら息を潜める家出少女にも何が起きるか分からない。試してみようとは思わない。

「『迷い子羊』。
 使えそうなものは、作れるかな」

 側に寄り添う羊の毛束へぞんざいに手を突っ込んだ。触れた冷たい感覚の元を握り締め、引き抜く。
 ガラスのナイフが現れた。縁のある人生だ、と残った余裕の最後の部分がはしゃいだように口ずさむ。

「……ナマエ?」

 カーテンの隙間から覗く家出少女に名前を呼ばれた。

「ああ、お願い」

 返事の代わりにせがんでみる。

「見ない方が、いいかも」
「待って。どうするの」
「追い返すの」

 果物ナイフのようだけど。これから切るのは、そんなに可愛いものじゃあない。動物の肉を切るだけなんだと何度も自分に言い聞かせ。テレビドラマで見た殺人犯か何かのように、不格好に、構えて。手が震えていた。

「ナマエ?
 む、無理よ。何してるの。ねえ、あなたが死んじゃったら、」

 しんじゃったら?死んでしまうんだろうか。私は。家出少女に呼ばれた気がした。あのかわいそうな船員みたいに?感覚が無いように指先が痺れる。
 あんな風に、ぼろきれみたいに?耳鳴りがどこまでも止まらない。

「いや。やめて、ナマエ――」

 目前に迫る相手の影が大きく見えた。
 悲鳴が聞こえる。




 ジョジョ、と。あの子が呟いた時。緊張でこわばる身体はすぐには動いてくれなかった。
 オランウータンが殴られた、その瞬間のポーズそのままで私は呆然と空条を見つめていた。口が開いている自覚があるから、きっとずいぶん残念な顔をしていることだろう。今に始まったことではないけれど。

「空条」
「お前は下がってろ。
 ……てめーの錠前だぜ、こいつは」

 そう言って投げつけた錠を跳ね飛ばし、吼えた大猿が飛びかかっても空条はまるで眉のひとつも動かさない。学ランの襟元が崩れる。毛深い茶色に覆われた蹴りを『星の白金』が受け止めた。『迷い子羊』があの蹴りを食らう様子を想像して、痛みもしないお腹へ手をやった。

「ナマエ!」
「は、はい」

 突然怒鳴りつけられて反射的に返事が飛び出た。音も立てずにナイフが落ちて、消えた。バスタオルにくるまった家出少女は何度か私の体を叩くと、「変な真似しないでよ」と誤解を招きそうな台詞を吐いた。

「大丈夫だよ」
「怖かったんだから」
「ごめんね」

 家出少女を抱き締める。

「ほら。空条が助けに、来てくれたから」

 私が死ななくてよかった。なんて、あるまじきことを考えた。








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