27
体の冷えをお湯が流して、足の先まで温める。真水を浴びるのは久しぶりだ。
(まさかシャワーが使えるなんて)
着のみ着のまま、持って来たものといえば小銭と手頃なナイフ一本だけで、何もかもを無理して考えなしに始めた旅だった。色んな我慢をするんだろうな、とか。飛び出したのは自分で決めたことなのに、今さら馬鹿みたいな心配をした。忍び込んだ前の船にはこんな設備は無かっただろうし。ぼんやりそこまで考えて、“前の船”で何があったか思い出す。
お湯の出るシャワーと引き換えに、とんでもないことに巻き込まれたような気がする。それが気のせいで、なかったら。
「終わったら交代ね」
「知ってる」
ああせっかくならアレも置いてくれたら良かったのに。締め切ったカーテンの向こうであの子は喋る。アレって、あれだよ。ほらバスタブ。お湯をたっぷり張って肩を沈めて浸かりたい。いっそ首まで、いやこの際頭のてっぺんまで。なんて、それが“今一番の贅沢”だって、さ。
知ったように想像してはみたけれど、実はよく分からない。贅沢だって言えるんだろうか。例えば綺麗な服や宝石を買って、豪華な料理を食べたいだとか、女の人が言う贅沢って全部そういうものだと思っていたし、そんなものに夢中になるだなんてつまんないことだとも思ってる。そうやって“よくある型”から外れた、誰とも違うあたしは特別なんだって、出発してからずっとドキドキしてたのに。
「石鹸あるけど、使う?」
「使う」
シャワーカーテンを少し捲った。そこらの安い怪物にありそうで、そのくせ何倍もギョッとできるほど不気味な汚れをすっかり落として、随分マシな表情になったナマエがいた。
ミョウジナマエ。そうしてフツーに名乗ったきりまるで気取らずにいるけれど、ナマエは絶対に、おかしい。気がヘンだって意味じゃあなくて、ああそうだ、まるでマジックショーみたいな真似事ができる仲間と一緒にいるとこだとか、それで空想みたいなピンチを乗り越えてみせるところだったり、だとか。あの船に忍び込んだ時からおかしなことばかり。
(味方だって、あのジイさんは言ってたっけ)
不安で怖くて心細くて、ほんとは誰かと一緒にいたい。けど、あの人たちを頼っていいのかどうかがわからない。よくわからない。ナマエはああして話しかけてはくれるけど、どこかであたしが欲しかったトクベツを、内緒で独り占めしてるようにしか思えなかった。ゆっくり育てた楽しみが、ぜんぶ消えてなくなった気がして。それがたまらなく悔しかった。
ああ、そういえばさ。ナマエは思い出したような調子で、やっとあたしに名前を聞いた。
「そうね……」
少し迷って、「ひみつ」と答えた。ついでに寒いと文句をつけて、わがままを言い過ぎたことに気がついた。本当は寒くも、何ともない。
「ナマエ?」
カーテンに仕切られて顔も見えない、何も言わないナマエは、怖い。
**
家出少女がからからと笑った。
「そ、秘密。教えてあげない」
「そこをなんとか」
「イヤ」
粘ってみせても、けんもほろろ。断固たる決意というものらしい。ふかふかの毛を蓄えて、湿気を嫌がる羊が逃げる。取り出したばかりのブラシを片手に、壁に背中を預けてみた。偶然にも手が届いたものだから、細く開いた外への扉も閉めてみた。スカートを寄せて座り込む。どうしたものか。あの子の名前が分からなければ、なにせ私が困ってしまう。
(代わりになんて呼ぼうかなあ)
「ナマエ。石鹸、もういらない」
カーテンの端から手が生える。
「ねえ、どこか開いてるの?」
なんだか寒いわ。石鹸をつるんと寄越して家出少女は呟いた。
背後の扉を振り返る。