コッペリア


 よく通る声で暢気に喋る深夜ラジオのDJが、話の合間に選曲したのは昔からぼくが愛してやまないバンドの古い歌だった。何度も読み返したせいで中身はほとんど頭にあった本を閉じ、眼鏡のレンズを綺麗にしながらしばらく耳を傾けた。ラブソングに共感を抱くようになれたのはいつからのことだったか、その頃にはぼくも大人になれていたんだろうか。それとも。なんて、少しだけ思いを巡らせる。人気もまばらな夜の駅前は考えごとにはとても良い。
 ぼくが勧める音楽を素敵だと愛してくれるナマエがとても好きだった。思えばあの時、きみの気休めになればとあれこれ勧めていたのはただの建て前で、ぼくはぼくの好きなものを同じように愛してもらうことで、ぼく自身を格好の良い男として意識してほしかっただけだったのかもしれない。当時のぼくには慎ましさのようなものが足りなかったのだ。たぶん。気恥ずかしさが湧いてきたのでラジオを止めた。静かになった車中は間もなく降り続く雨の打つ音と、踏切のかすかな余韻で満たされる。
 一昨日買った傘をまだ、ぼくは車に置いていたかな。



「ありがとう。雨が降るなんて思わなくて」
「相合い傘が夢だったんだ。君にはいつも隙がないから」
「それは、どういたしまして」

 この日最後の遮断機の音が鳴り止んだ。車内灯を受けてつややかに照るビニール傘には穴が空いていた。恋人の帰宅に水をさしてしまったようで一点気になるその箇所は、いつかどこかで知らない間に引っ掛けてしまったものだろうか。それでなければ、元々隙間があったのかも。「どっちだろう」と、くるくる綺麗に傘をまとめる助手席のナマエに尋ねると、「どっちだろうね」と苦笑混じりの返事があった。

「どっちでも、私は嬉しかったんだけどなあ。普段より貴方の近くにいられた気がして」

 透明素材の反射を受けるフチ取りの銀の眼差しに、夜景によく似た星が瞬く。傘の留め具がぱちんと鳴った。




「大事な話をしてもいいかな」

 真剣な様子で口を開くから、すぐに話し始めてくれるのかと。それきり少しの沈黙があると思えば「やっぱり、部屋に戻ってから」なんて、まるで何事もなかったようにエンジンをかけてみせる、ひどいひと。滞在先のホテルを目指して駅前の景色を半周、雨水のフロントガラスを流れた滴に目をやって、その後はずっとハンドルをきる典明の綺麗な眼鏡のフレームが夜光に透ける様子ばかりをただただ、眺めていたりだとか。
 カルテに書かれた最後の日付が十年前の今日になる。約束の日に包帯を外した私がはじめに見たものは、“この目ではもう何も見えない”なんてふわふわとしたとても信じがたい現実だった。よく似た力を発現していた私のスタンド能力が、庭木の花の散り落ちたあとに実が熟すほどの時間をかけて私の世界を取り戻すまでにどれほどみんなに迷惑をかけてしまったのだったか。次に本当に視力を手にして瞼を開いた十年前の今日この日もずっと、まるで長い長い時間を超えて大好きな人に再会したような私の拙い反応を楽しむ典明がしてみせる、運転席でつい今そうしているような、柔らかく口角を上げてくすくす笑うお決まりの仕草が何よりも、愛おしいもので。


 信号は赤。ある時期を区切りにナマエの瞳が装いを変えてしまったことに関しては、ぼくは訳を尋ねようとする相手が誰であったとしても口を閉ざすと決めていた。赤から青。ありふれた黒からエナメルの彩りに。アクセルをいつもより深めに踏み込むと、助手席の窓の隙間から止みそうにない雨の気配が空気に紛れてやってきた。
 細かい理由がどうだとしても、ナマエの全てがぼくにとっては今も昔も一等星にも負けないくらいに魅力的であり続けるのだけど。なんて、ぼくがいつからか愛用をはじめた眼鏡を新調した時に、それまでの穏やかな流れを崩さないよう彼女に伝えてみたことがある。

『これなら、君とお揃いだ』

 それに加えて少しだけ格好をつけた台詞を添えながら掛けるフレームは、一目で分かるナマエの瞳と同じ色。

『私よりずっと似合ってる』

 嫉妬するようなふりをして、とても満足そうに笑うナマエの愛しいことといったら。

「ねえ、ナマエ。
 さっき話そうとした、ことだけど」

 恥ずかしい話。さっきからぼくは恥ずかしい話ばっかりだ。勿体ぶっておきながら、我慢の限界に襲われたのは自分の方が先だったなんて。

「ナマエ」

 滞在しているホテルに着いて、少し遠慮してから彼女に触れた。エンジン音ももう聞こえない車の中には小雨の音は似合わない。身をのりだして窓を閉めた後、狭い密室で耳にしたのはぼくがうっかり倒してしまった“SPW”刻印のある仕事鞄とそこからこぼれるファイルの擦れと、それを気にしたらしいナマエの乱れるかすかな寝息だとか。そういえば、最近は特に忙しそうだった。

(労ってあげる言葉のひとつくらい、かけてあげれば良かったな)

 シートベルトの外れた感覚。こんなところで気が利かない、ぼくのような男でも、よかったら。後で機をみて謝ろう。少し生き急ぎすぎじゃあないかとは、ぼくもまったく、そう思う。はやる心音に揺さぶられながら胸の奥底に押し込んでいたひとつの想いを取り出して、座席の軋みを気にも留めずに可憐なその手を包みとる。左手だ。くれぐれも、間違えることのないように。

「寝込みを襲うような真似をする、駄目な大人になったぼくじゃあ、不満かも、しれないけれど」

 ずいぶん前にサイズを調べて、ポケットの中の小さな箱で待ちぼうけていたものだった。ホテルの外観、豪奢な灯りに負けない位に美しい、指輪の居場所は今このときからナマエの左手、薬指。しなやかな線に寄り添う形は彼女によく似たイメージで。

「君がよければ。ぼくのあの日の約束を、ちゃんとした形で守らせてほしい」

 握った片手は離さずに、指輪の瞬く爪先に音のないキスをしてみせた。少し調子に乗りすぎた。瞼を半分ゆるやかに開けてぼくの姿を捉えてみせるナマエときたら本当に、ぼくにはもったいない人だ。誰にも渡そうだなんて思わない。

「おはよう、ナマエ。お休みのところ、悪いのだけれど。
 せっかく寝るなら、ちゃんとした場所で」

 寝ぼけ眼を擦ったナマエに化粧が落ちると注意しながら、運転席を抜け出した。
 プロポーズはまた、改めて。









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