ペーパーナイフのない国で


 物腰のとても柔らかい、人当たりの良い女であると旅の仲間はナマエを評した。おれは違うと思う。いや、違わない。分からない。それが“いつからか”などと判別することも叶わないまま、ただ漫然とした違和感だけが宙に浮くようにそこにある。
 観察を重ねるにつれ思考は膨らむ。何度か視線が交わって、曖昧な笑顔ではぐらかされたこともある。ナマエは何かを隠していた。それが何であるかも見えないまま、おれたちはあのエジプトの夜を越えたのだ。
 「勘違いかもしれないけれど」予防線を張るように、妙に慎重な様子で前置きをして。旅先で終えた昼食の包みをそれは器用に小さくしながら、かつての戦友は言っていた。

「ナマエは強い子だと思う」

 同じ教室、ふたつ前列にいるはずのナマエの席は週が明けても空だった。授業はこの日も張り合いがなかった。




 空条くんへ。伝えたいことがあるので、もし。時間があったら、放課後に。なんて。私は何をしてるんだろう。アラビアンナイトは終わった。ここは日本で、夢物語なんて。なのに、こんな。

(ばかだ、私は)

 窓がひとつだけ開いていた。週明けの陽も落ちる頃、退院してから初めて入る教室の空気は橙。だらしない性分だった気がするクラスメイトの斜めに佇む椅子だとか、絵描きを目指すモダンなあの子の、前衛的な落書きのある机とか。なんだか少し懐かしい、昨日とまるで変わらないような暖かい景色の片隅に、承太郎の席はある。私の席は、ふたつ前。
 治った利き手で手紙を書いた。手紙といっても、メモ書きで。大した内容じゃあない。旅のお礼とか、怪我の完治を伝えたりだとか。わざわざ呼び出してまで言う程のことじゃあ、ないかもしれない。けど、けど。そうして考えているうちに、どうしてこんなことを彼に伝えたいと思ったのかが分からなくなった。四つ折りにした小さなメモを、机に入れる手を止めた。ピンクのハートのシールが貼られた可愛い封筒が一通。二通。清楚な三通。ラブレターだ。まだたくさんある。
 運が良いと思った。できるだけ何も考えないように、机の奥につまらないメモを押し込んで。振り返らずに教室を出た。都合が良かった。あの様子なら、きっと分からないままだろう。こんな真似をして。私はきっと、こんなばかみたいな私を。あの綺麗な封筒の山と一緒に、どうか見過ごして欲しいだけなんだ。間違いない。そうに違いない。



 荒い調子で短く声をかけられたのは翌朝、ホームルームがやって来る前のほんの少しの空き時間。昨日は全く、寝付けなかった。

「面貸せ」

 鞄を置いて、ちょうど欠伸を噛んだ辺りのはずだった。こちらを見下ろす承太郎の、視線にとても堪えきれなくて目を逸らす。ひどく機嫌が悪そうだった。

「あの。でも、もうすぐ先生が」

 それでも有無を言わせないような調子で私の手を引き、教室を出る。

「てめーの用件とやらが先だ」




 あれから一度も目が合わないことに苛立っていた。久しぶりに会った割にはそっけないような、この態度。べたつかないのがナマエの良い所であると常々感じてはいたが、かえって淡白すぎると気に食わない。

(おれを見た時のナマエの顔といったら)

 それなりに見知った仲だというのに、まるで他人行儀とも呼べるような。あの誤魔化すような笑顔すら満足にできていないのだから、余程のことがあるのだろう。ナマエはそれについて一切触れようとしないのだ。「久しぶり」から始まる挨拶程度の会話は、回りくどい手で呼び出したにしては拍子抜けするほど平坦なまま、曰わくナマエの用事とやらは終わったらしい。カイロでの負傷も、なにもかも。無事元通りに戻ったのだと。

「それだけで、おれを呼んだのか」

 きっと承太郎は呆れてしまったに違いない。あんな、他の子の真似事なんてしなければ良かった。低い声音にどうしようもなく息が震えて、ごめんなさい、と返した台詞は小さく地面に落ちる。頭の中が真っ白になって、放課後までに用意したかった言葉はまだ、ここには何もない。違うんだ。こんな大掛かりなことをして。つまらない挨拶なんか、どうだって良かったのに。私は。

「ねえ。あのね、承太郎。急に言われても、迷惑なだけかも。しれないけれど」

 表情を窺う勇気がなかった。自分の靴だけを視界に入れて、情けないほど渇いた喉で言葉を絞る。

「あなたが好きなの」

 このまま黙っているつもりだった思いの端が、はたはたと、涙になって溢れ出る。言ってしまった。旅の道中、気付けばいつも後ろ姿を目で追いかけていた、なんて。

「吊り橋効果みたいなものだって。気のせいだって、ずっと思ってたのに」

 動悸と震えが止まらなかった。爪先に落ちる水滴の粒も視界に入れる気になれずに瞼を閉じる。

「なのに、もう。どれだけ経っても、承太郎のことばっかり、考えて。わたし、なんてことを言ってるんだろう」

 このまま何かを聞く前に、今すぐ死んでしまいたかった。もうかえるから。今のはわすれて、なんて考えもなしに継ぎ足した言葉を、聞いただろうか。優しくて大きなてのひらに気付けば頬の涙は拭き取られていて、つられて上がる視界には承太郎のいつもの表情が、とても近くに映えている。旅の途中で嫌ほど知ったあんなに逞しい腕なのに、私と彼とを縮める力はどうしてこんなにも華奢なんだろう。

「そいつは良いことを聞いた」

 触れるだけではまるで足りない。華奢な背丈に合わせるように融通の利く身体をいくらか屈めて、おれの知らないナマエの全てを奪い取るように両手で縛って閉じ込めた。おれのためだけにナマエが流す涙の、背筋をくすぐる高揚感。不安げな表情に感じた悪い予感は杞憂であった。胸に収まり真っ赤になったナマエが身の丈の差を詰めようと、僅かに背伸びを繰り返す仕草の、なんてことだろう。

「このまま、今日はフケちまおうか」
「えっ」

 返事も聞かずに身体を抱き上げ、聞こえた悲鳴はチャイムの音にかき消える。落とした小さな片方の靴を拾うのは、今でなくとも構わない。










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