ソルティ・シープはグラスで眠る
お聞きなすって、よろしいかしら。あのですねえ、と。ナマエはタコが湧くほど繰り返す。
「これは、とてもよくないことなのよ」
まさか、さっきのお夕飯を。こくのあるお味噌を、さっぱりとしたお醤油を、あの真っ白でぷりぷりとしたお豆腐を。まさか忘れたわけじゃあないでしょう。
(ここで外野からは“全部大豆製品じゃあないか”“もっとあるだろう、他にも”などと濃いヤジが入った)
ああもう、うるさい、うるさい。どれだけぶりの和食だったか、あんたたちなら分かるでしょう。そりゃあお値段だって、あれだし。そのぶん少しばかり、格式張ってはいたけれど。お出汁の香りがなんて懐かしいんだろうって、お夕飯食べながら話したじゃない。
「つまり何処にいようが私たちの気持ちは、日本にあるってことなのよ」
「でかい忘れ物だ」
「ちがう」
アルミの缶を傾けて、ミョウジナマエは声を大にする。
「だから。ここが日本でなくても、未成年者の飲酒はだめ。禁止。
ルール違反はよくないと、おもいます」
「そうか」
向こうに座った空条承太郎は特に顔色を変えることもなく応じると、ナマエから件のブツを奪い取る。
「あっ、私の」
「酎ハイ。禁止なんだろ」
「まだ残ってるのに」
「やかましい」
尻をつけ座るナマエにはとても届かないほど、高々とアルコールの缶を掲げてみせる。
「“寡黙な男にすがる女性”みたいだ。
まあ、実際のところ、そうなんだけど。そうじゃあなくて」
次の一本に指をかけ、花京院典明はちらとこちらに目をやった。
「君も飲むかい? どうかなあ。羊にアルコールって、聞いたことがないから」
首だけを振ってそっぽを向いた。アルミの口が開く音。
広い眉間に見たこともないほど深いシワを作ったナマエの羊型スタンドが何度かもがいて、どうにか届いた前足で本体の頭を小突く様子を缶を空けながら眺めていた。干したての羽毛布団のように膨らむ巻き毛が羊の心中を表しているように見えなくもない。スタンプされたナマエの額の真ん中には、二股に分かれた蹄の具合がくっきり綺麗に浮いていた。
旅先の宿で二人きり。ババ抜きしか覚えていないのだけどとカードを切り混ぜ苦笑する、ナマエの慣れない手つきを眺めている最中。まだ素面だった頃の花京院がどこかやつれた様子で大量の酒を持ち込んだことが一連の発端ではなかったか。
「わ、すごい。どうしたの」
「押し付けられたんだ」
「これ全部?
あ、アルコールって書いてある。お酒かあ」
ナマエの落胆の声を聞きながら、試しにひとつを開封する。弾ける音と、炭酸ガスの刺激臭。
「駄目だよ空条」
「ジュースみてーなモンだろ」
「けど。お酒でしょう」
「うるせえ」
尚もしつこく食い下がるナマエにこの時覚えた情動は、果たして何に似たものだったか。カードが切られていた頃から訳もなくひどく渇いていたことだけは新しい。決して手には届かないようそれを高々と持ち上げて、お前の舌には合わないだろうとナマエに言ってやったのだ。
「空条」
「よせ。飲み過ぎだ」
つまらない挑発なんてしなければよかった。酔いの抜けない頭では後悔してもしきれない。すがるナマエの上気した頬、湿った唇が、ふっくらと。
「か。花京院、ミョウジを」
「ああ、うん」
元凶を持ち込んだはずの当人はとうに飲むものに呑まれへらへらと、眠りに落ちた羊の隣でだらしなく頬を弛ませる。腰を上げる気配はそこに微塵も見当たらない。
「ナマエは本当に可愛いなあ」
呆れて舌打ちも出なかった。かといって、おれ自身はどうかと訊かれると返すに困るものがある。缶を守る手で帽子を引き下げ、溜め息だけは吐き出した。
飲み過ぎた。頭がおかしくなりそうだ。
酔い止め薬の端書きに“二日酔い用ではありません”なんて内容があるのを目に留めて、放ったばかりの錠剤の粒をばりばり奥歯で噛み砕く。
(効くかと思ったんだけど)
まだ日も昇らず小鳥も鳴かない朝と深夜の境目のこと。寝入ったナマエに学生服の上着をかけると聞き取れないほど小さな寝言がこぼれて、すぐに静かになる。女の子は身体を冷やすと良くないと聞いたことがあるから、ぼくより先に上着を被せた承太郎はよくできている。きっとそこで寝ている薄着の彼は、風邪などひかないのだろうし。
シャツにできた大きな皺を伸ばしながら、お湯が沸くまでを待つ十数分がまるで永遠のように思えた。ポットのお湯が沸く音に、まず承太郎が反応する。
「おはよう」
「何時だ、いま」
「まだ早いよ」
ナマエに盛られた学生服のポケットからは腕時計、ライターと煙草の箱も現れる。かすかな衣擦れを聞きながら、インスタントの緑茶を開けた。
「花京院」
「なんだい」
「もう二度と酒は持ち込むな。
その。ナマエが」
「結構、楽しんでたと思うけど」
「いや、そうじゃない。おれが保たねえ」
お茶をこぼした。
「それって、きみ。まさか」
煙草をふかす視線が逃げる。
「昨日は何もしなかった」