フレグラ


 ナッツが盛られた小鉢のサラダにドレッシングの良い匂い。何だかとても盛り上がっている奥様たちの使う言葉は慣れない異国のものだけど、あれくらいのマダムが集まると途端に騒がしくなるシステムはどうやら万国共通のものらしい。
 朝食のパンは食べ放題だと聞いたから、焼きたてらしいクロワッサンをお皿にたくさん盛ってみた。飽きたら苺のジャムをのせたい。きっとおいしい。
 香ばしいバターの風味を割りながら、テーブルを囲むいつものみんなに目をやった。

(いつもの、とは少し違った)

 なんとなく思う違和感は、斜め前に座るポルナレフから。これはどうしたことだろう。昨日はDIOの手先として私達に怖い顔をしていたこの人が、今は私達と同じ席で朝ご飯を食べている。さっきから真剣な表情をしていたり、溜め息をついて憂鬱な雰囲気になってもみたりして。
 ジョースターさんの空席に置かれたコーヒーがどんどん冷めていく。私はどうとも思ったことはないけれど、みんなには何か考えてることがあるのかしら。大きく切り分けたオムレツを一口で頬張る花京院はまるで監視の真似でもしているように黙ったきり、ポルナレフから目を離さない。沈黙が少し息苦しい。行儀の悪い私の羊がテーブルの上に首をもたげて、小鉢のレタスを一枚引いた。

「それは美味いのか」

 隣の席で皿を積み上げた空条が、気付けばこちらを向いていた。

「なにが」
「三杯目だ」
「そうだっけ」

 空っぽになったジュースのグラス。そうだったかもしれない。居心地の悪い空気を誤魔化したくて傾けていただけから、なんとも。しゃりしゃりとレタスは消えていく。
 ジョースターさんが戻ってきた。メモを片手に香港を出るチャーター船の時間をみんなに伝えたら、すぐに新しいコーヒーを淹れに行ってしまった。
 クロワッサンの残った最後のひとつには、予定通りにジャムをのせよう。船の時間まで結構あるけど、どうしようかな。

「随分暇そうだな」

 あれ。

「もしかして、独り言になってた?」

 空条は訳の分からないものを見る目で私を見た。

「独り言にしちゃあ、お前」
「ごめん」
「いや」

 ポケットから煙草の箱が出てきた。さっぱりとした苺のジャム。少し考えるような間があって、溜め息が聞こえた。煙草の箱は開封されずにまたポケットに仕舞われた。

「食ったら付き合え」
「いいけど。用事? 私で足りる?」

 「十分だ」と言ったきり、空条はしばらく黙っていた。


**


 お買い物には早いから、どこも閉まっているんじゃあないかとこっそり心配してはいたけれど。どうだろう。想像よりも、通りはずっと騒がしい。
 まるで霧でも出ているみたいだ。朝の空気と人混みのどこかでもうもうと広く白い煙が立ち込めるのは、出店に置かれた大きな蒸し器が何かの支度をしているから。すぐそばを歩く学生服の大きな背丈も見え隠れして、近くにいても迷子になってしまいそうになる。
 空条は蒸気を避けるように角を曲がった。細い路地。袋小路の奥には“OPEN”と札の下がった扉がひとつ。縁に下げられたベルが鳴る。



「わ」

 空条に着いて中に入ると、まず入り口脇。視線の高さの台に置かれた狛犬のような変な置物と目が合って、とても情けない声が出た。狛犬じゃあなくてシーサーかもしれない。すごく目力があることだけはよく分かる。

「ひ、待って。ひとりにしないで」

 ふらり先を行く空条に、置いて行かれてはたいへん困ると背中にぴったりくっついた。まるで図書室に並ぶ本棚のように道幅を狭く、隣を遮る商品棚には乾いた瓶に古い壷、くびれた湯呑みのようなもの。架けられていた梯子にうっかり足を引っ掛けて、倒れるそれを《星の白金》が支えた静かな衝撃と謝る私の潜めた声。かすかに聞こえる羊の蹄が鳴る音も、ひとつひとつが染み入るような。

「香炉の店らしい」

 不思議に暗くてエキゾチックな並びを抜けて見えた階段を登る頃。空条は唐突に教えてくれた。

「へえ。お香に興味があるの」
「何だ」
「別に。いいと思うよ」
「そうか」

 急な段差を越えて、二階。照明が強く射し込むように明るさを増して、途端に空気はがらりと変わった。
 目が慣れるまでに少しかかって、それからその目を疑った。壁一面、明かりを受けるショーケースには色とりどりが並んでいる。

「わあ、すごい」

 真っ白なテーブルの隅に並んだ果物かごのひとつには、今日の朝食べたジャムを思い出す大粒の苺に酸っぱくなるほど盛られたレモン。シーとかディーとか、ビタミンがたくさん摂れそうな山の中には同じ色をした苺のサイズの光るもの。

「綺麗。宝石みたいだね」

 その中で、なぜか“お試し用”とラベルの貼られた気になるひとつを手に取った。少し触って、指のかかったカットの縁を弱く捻ると二つに割れた。焦ったけれど、大丈夫。片面はフタになっている。もう一方から透明な雫を数滴、手の甲に落とすと口元に寄せた。
 苺の香り。

「ねえ、」

 甘い匂いに寄ってきた《迷い子羊》にかじられないよう気をつけながら、部屋の対岸で背中を向けて、海色の壁面を見ていた空条の横に立ってみる。

「こんなお店、よく知ってたね。
 隠れ家みたいな場所なのに」
「まあな」
「前にも来たことあるの?」
「いや、雑誌の特集で見ただけだ」
「ふーん。空条も、」

 雑誌とか読むんだ、なんて。言いかけたものをぐっとこらえた。私は空条をなんだと思っているんだろう。

「どうした」
「あ、ううん。
 空条もこういう、香水とか。好きなのかなって」
「お前はどうなんだ」
「私? 好きだよ。
 詳しいことは知らないけれど」
「そうか」

 空条は「俺も嫌いじゃあねーぜ」と一言続けながら、香水の棚に視線を戻した。
 沈黙がとても心地良かった。二人できらきら綺麗なガラスを静かに眺めて、それがまるで、どこか夢を見ているようで。これからまた旅を続けることがなんだか急に不安になって、そのうち胸まで苦しくなる。

「ミョウジ、」

 どれくらい経っただろう。気付けば背の高い身体を屈めて、私を覗き込んでいた空条の手には小さくておしゃれな紙袋がある。

「大丈夫か」
「私、泣いてないよね?」
「ああ」

 疲れただろ、帰れるか。なんてごく当たり前の質問に、私は何度も頷いた。空条はちらりと私を窺ってから身を起こす。「店員の野郎」と短く降った言葉を拾った。

「何か話したの?」
「いや。
 最近じゃあ恋人に物を贈る時、カップルで選びに来るのが流行りらしい」

 薄暗い外への帰り道。空条がいつもの学生帽の、具合を確かめる気配がある。

「それだけだ」
「へえ、初耳」

 大きな背中からは微かな煙草のにおいと、名前も知らない香水の甘酸っぱいような果物のイメージ。同じ匂いを共有することが、なんだか少し特別に思えた。










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