海星のヒトと本の虫
古い紙の匂いと背表紙の肌触り。高く積まれたハードカバー。ダンボールに入ったシールも判子もない真新しい文庫本。未記入のカード。
分針が進むと同時にページを捲る。次のタイトル。一、二行程目を通したら(この作者にしては珍しく)割合長そうな切り出しだったので、キリ良くここで止めておくことにした。
三角座りを崩した弾みでパイプ椅子が軋む。うんと伸びをしたついでにカウンターへと本をやり、丸くなった鉛筆で貸し出しカードを埋めた。借りる人、ミョウジナマエ。日誌/入室者昼休みの部、ゼロ。ただし当番を除く。
昼下がりの図書室は閑散としている。高校生とは忙しいもので、昼休みもなにかと用事が多い。それは熱心な部活動の練習だったり、午後の授業に向けての準備や課題の消化だったり。色んな条件が重なって、たまに私だけの城が出来上がる。
誰も来ないし閉めてしまおう。本を小脇にしゃらしゃらと鍵を鳴らして、紙製煉瓦の壁に沿って数歩。つい先程の登場人物N氏の行く末を案じるあまり、
「うわ」
扉の向こうに気が回らなかった。
(目の前が制服のボタンって)
もの言いたげな視線で入り口を塞いでいることに気付き、慌てて飛び退く。
「ごめんなさい、ボーっとしてて」
「いや、」
無人の室内を一瞥すると、男子生徒はこちらを振り返る。
「今日は終わりか?」
「え。……ああ、はい。人も来ませんし」
彼の手に大きな図鑑があるのを見て、「まだ時間はありますから」と付け加える。どうぞ、と奥へ促して、日誌の数字を書き換えた。
「海洋生物の本なら、これよりもっと」
あまりにマイナーな出版社の図鑑だったので、思わず口を出してしまった。
「たくさん載ってるものがありますよ」
同タイトルのカードを探し当て、名乗った彼――空条承太郎の名前を探す。あった。貸し出し日の隣に返却日を書き込み、判子をぺたり。あ、同じ学年だったのか。
「確か、誰も借りてないはずですけど」
今更敬語を止めるのも面倒で、良かったらどうですかと問う。するともういいのだと返された。
「目当てのモンは見つかった」
「はあ。……あの、ちなみにそれって何ですか?」
知らない生き物の名前を挙げられた。
「ヒトデの一種だ」
そう言って書架を抜ける空条くんの後を早足で追いかける。出所の分からない本を戻すには、借り主に頼るのが一番だ。
「折角ですし、他にも何か借りていかれます?」
本を読んで貰えるよう努めるのも図書委員の大事な仕事である。図鑑を元あった場所に収め、棚を見上げていた空条くんを少し離れた一角に招く。
「沢山入ったんですよ、新しい小説。話題作から名作まで」
「ふむ……」
あまり乗り気でないようだ。
「“お勧め”とやらはねーのか?」
「私のですか? ……えっと、それじゃあ」
通路を挟んで反対側、お気に入りの話はくすんだ白い装丁。
「はい、どうぞ。
私がここで初めて借りた本です」
ショート・ショートで有名な作家の作品集。見開き一ページ前後で終わる話はどれもシンプルで面白いものばかりだから
「あまり本を読まない人でも気楽に読める一冊ですよ」
空条くんは小さな(といっても彼の手が大きいだけで、あくまで通常サイズの)文庫本をパラリと開く。
「……」
次のページ。
沈黙。
「……あの」
「あ、
……ああ。すまねえ、こいつに決めたぜ」
「本当ですか? ありがとうございます」
はやる気持ちで手続きを済ませる。勧めた本に興味を持たれるのは嬉しいことだ。どうだろう、気に入ってくれると良いのだけれど。
「ミョウジナマエってのは、」
お前のことか?と問われて頷いた。どうして知って……ああ、貸し出しカード。空条くんが二人目だものね。
「“本の虫”で有名な?」
「失礼な――初耳ですよ、それ」
「此処には毎日?」
「まあ、一応。
今日と明日と、それから月曜日も当番なので」
「そうか……じゃあ、ミョウジ」
空条くんは学帽のつばを引く。
「また来るぜ。その時にな」
「あ、はい」
「お待ちしてます」と手を振り見送って、図書室なんだから返しに来るのは当たり前じゃないかと思う。
「あっ、予鈴」
鍵と本を握り締め、転がるように部屋を出た。
**
(どれだったかな……)
『自習』と大きく書かれた黒板を見て、私はすぐに図書室へと引き返した。空条くんの調べものが気になって、プリントになんて集中できない。一刻も早くこのモヤモヤを解決させたかった。
件の図鑑を引っ張り出し、ユニークな表紙を開く。
「ん? これって」
おかしい。この本で間違いない筈なのだけど。
クラゲ、ウミウシ、アメフラシ。ヒトデのヒの字も見当たらなくて、私は暫く頭を抱えた。
(変なひと!)