ありったけの勇気を振り絞り、初めて私から彼を誘った遅めのランチ。はじめに予定していた日は、バーナビーさんに急なコールが入ったということでおじゃんになった。その晩、電話越しに心底申し訳なさそうな声で謝られたが、むしろ今までこういうことがなかったことの方が不思議なくらいなのだからと、私の方がむしろ彼を宥めるような立場になったのが可笑しかった。貴方の出動のおかげで私たちの街は平和なんです、と真面目に返すと、彼は謝るのをやめて「ありがとうございます」と穏やかな声で笑っていた。
 リベンジとなる今日は、彼が前回のお詫びですと言って高級そうな紅茶の缶をプレゼントしてくれたところから始まった。こういうことをさらりとやってのけるところに、なんというか、格の違いを感じるなあと思う。違う種類のサンドイッチを半分ずつシェアする形で注文したあとは、彼の呼び出し用デバイスが鳴ることもなく話が弾み、そろそろ出ようかという頃にはすっかり空の色が変わり始めていた。

「今日も、僕に送らせてもらえませんか」

 お店を出る間際になって、近くに車を停めてきたのだというバーナビーさんにそう言われたとき、私は自分の中に一瞬の躊躇いが生まれるのを感じた。そんな私の躊躇いを感じ取るなり、すぐに「もし、嫌じゃなければ」と優しく言い添える彼はきっと、いや絶対、私が本当に嫌がることをしたりしないだろう。彼がいつもの余裕たっぷりな態度とは違って、少しだけ弱気な姿を見せていることに胸がじんと熱くなる。一度息を吐いてから「お願いしてもいいですか」と言うと、彼はほっとしたような表情を見せた。なんだろうな、以前よりもずっと、彼の表情が読み易くなった気がする。

「今日は、デートに誘ってくださってありがとうございました」
「でー、と…」
「…僕はそのつもりでしたよ?」

 悪戯っぽい笑みでバーナビーさんがそんなことを言うものだから、デート、という響きがぐるぐると頭の中を回る。一度彼の赤い車に乗ってしまえば、もういつも通りバーナビーさんのペースで、先程ちらりと見えた弱気さは全く感じられなくなった。

「…ふふ、耳が赤いですね」
「…、前を見て運転してください」

 悔し紛れにそう言い返すと、バーナビーさんはまったく悪びれる様子もなく「すみません」と楽しそうに言ってのけた。悔しいのに、彼が見せるその素の笑顔に、またじんじんと胸が熱くなる。心臓が、痛いくらいに鳴っている。この痛みが、出会い初めに感じていた緊張と羨望からくるものとは違うものだということを、私はもう自覚している。こうして近づいてみなければ分からなかった、紳士的で完璧なヒーロー像の裏側にあるこの人の素顔が愛しいし、もっともっと色んな表情を見せてほしいと思う。

「あの、」
「はい?」
「…好きです、バーナビーさん」

 我慢できずにそう言うと、彼が隣で息を呑むのが分かった。なんの脈絡もムードもない、我ながら愚直すぎる告白だった。怖くて彼の方を向くことはできず、私はフロントガラスの奥を見据えながらたどたどしく言葉を継いだ。

「私、バーナビーさんとお話するのが、楽しくて…もっと一緒にいたくて、もっと色んな所に行きたいなって…、たくさん話して、もっと色んなことを知りたいなって、…そんなことばっかり考えてるんです、最近」

 頭の中には彼と過ごした時間が走馬灯のように流れていた。彼の温かい微笑みが、さり気ない優しさが、甘い声が、大人の男としての強引さが、時折見せる子どもっぽさが、私はもう、どうしようもなく好きなのだ。
 ああ、恥ずかしさで耳鳴りがする。うまく喋れていないのも自覚している。彼の職業を考えれば、自分の気持ちを伝える以上のことはできない、と思い、私はダメ押しのようにもう一度「好きです」と声を絞り出した。恋人になりたい、とは言えなかった。
 バーナビーさんは、私が一通り気持ちを吐露し終えたあとも何も言わず、車を転がし続けた。私に何を言うべきか、言葉を選んでくれているのだろうと思い、私も黙って窓の外を睨み続ける。沈黙が永遠のように感じられたが、実際はほんの数分のことだったと思う。そうして気付けばもう、あのマンション裏の公園に着いていた。車を停めたバーナビーさんがこちらを向いたのを視界の端で感じて、私も、自分の手をぎゅっと握りしめながら彼の方に顔を向けた。

「……僕が言うつもりだったのに」
「え、」

 予想外の台詞に間抜けな声が漏れる。バーナビーさんはがちゃりと自分のシートベルトをはずしてから、片方の手で私の握り拳を包み込み、もう片方の手で優しく私の頬を包んだ。彼の手は、温かい。

「僕が言うつもりだったんです。好きです、僕の恋人になってください、って。それなのに…だめですね、先を越されてしまいました」
「……私、その…、ずっと会えなかったのが、さみしくて」
「…うん。嬉しいです、ハルさんの気持ち。僕も、貴方ともっと一緒にいたい。何の口実もなくても、会いたいっていうだけで会える関係に、なりたい」

 唇をなぞる指と甘えるような視線に、私は半ば泣きそうになりながら、彼の端正な顔を見つめた。

「…僕を、貴方の恋人にしてくれます?」

 優しく問われて、こくこくと必死に頷く。夢みたいだ、と思うけれど、彼の手のひらから伝わってくる温もりが、これが現実であることを知らしめる。目を細めたバーナビーさんが、指先で私の上唇をそっと持ち上げる。どきどきと心臓が脈打っても、この前のように怖くはなくて、私は近付いてくる緑の瞳にぼうっと見惚れた。
 吐息の触れ合う距離で、バーナビーさんが「目、閉じて」と甘く囁く。素直に目を閉じると、ふにゃりと唇に柔らかいものが優しく触れて、離れていった。目を開けると、御馳走様と言わんばかりにぺろりと唇を舐められ、私はどんな顔をしたらいいのか分からなくなって下を向いた。彼はそんな私の反応を慈しむかのうように、額の上にそっとキスを落とす。映画のワンシーンのような流れる仕草に、やはり格の違いを思い知らされる。私がせめてもの反撃にと彼の唇を奪い返すと、彼は困ったような笑みを浮かべて、「やっぱり、帰したくないなあ」と不穏な独り言を呟いた。


20210315
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