バイト帰り、ビルに埋め込まれた大型ビジョンに、バーナビーさんのインタビュー映像が流れているのを見て、私はなんだか途方もない気持ちになった。あの夜のことはすべて夢だったんじゃないかと本気で思う。特に帰り際の、車の中での出来事は、あまりにも私のキャパシティを超えていた。あのときの彼の表情も、指先の感触も、声音も、すべてが脳裏にこびりついて離れず、二週間以上経った今でもこうして思い返すたび、無条件に私の頬は熱くなった。
 別れ際、最後に「じゃあ、またお店で」と言っていた彼が、今までの来店ペースならばもういつお店に姿を見せてもおかしくない、と思いながら店頭に立つのは少し気が重かった。だって、こんなに気持ちが整理できていない状態では、これまで通りの接客なんてきっとできない。今までどんなふうに彼と話していたのかさえ最早うまく思い出せない。会いたくないわけじゃない、嫌なわけじゃない、だけど、どうしたらいいのかわからない。答えの出ない問いに頭を悩ませながら、はあ、と溜め息をついた瞬間、ポケットに入れていたデバイスが振動し、意味もなく音楽を流していたイヤホンからは「Incoming call from Barnaby Brooks Jr.」と温度のない声が聞こえた。
 今の今まで頭の中を占拠していた人物からの電話に私は動揺し、振動を続けるそれを握りしめた。どうしよう。いや、もう、どうしようもないけど。

「…もしもし?」
『ハァイ、バーナビーです。すみません突然』
「え、いえ」
『ハルさん、いま少し、大丈夫です?』
「あ、はい、大丈夫です。どうしたんですか?」

 あれだけぐるぐると考え込んでいたのに、こうして話し始めてしまえば存外気負いもなく喋れてしまうものだな、と頭の隅で思う。耳に届く中低音が心地良い。さっきは大画面で、シュテルンビルトの全一般市民に向けて堂々と喋っていた彼が、今は私だけに話しかけているのだと思うとなんだか不思議な気分だった。やっぱり夢みたいだ、と思う。

『電話するか、本当は少し迷ったんですが…』
「?、はい」
『実は、その、しばらく…いえ、まあ二、三週間程度とは思うんですけど、お店に行けそうになくて』

 珍しく歯切れの悪いバーナビーさんの話によると、ネクストの犯罪者とやり合った末に、ワイルドタイガーが足を怪我してしまったらしい。有り得ませんよね、と言い放ちつつもバーナビーさんは、仕事はもちろんプライベート面でも必要なサポートをしようと思っているらしく、その都合であまり自由に時間が取れそうにないというのだ。『あの人、結構頑固だし、自分でなんとかできるって言い張ってますけど、まあ、僕にできることはしたいなと思っていて』と。ワイルドタイガーのことを話す彼の口ぶりから、二人の信頼関係が感じ取れてなんだか微笑ましかった。
 気の利いた言葉も浮かばず、「早く良くなるといいですね」と当たり障りのないことを言ってから、私は何かもの足りなさを感じて、咄嗟に、「さみしいので」と付け加えた。直後、私は何を言っているんだろうと我にかえり、後悔と羞恥で死にたくなったが、すぐに、ふっとバーナビーさんが吐息だけで柔らかく笑うのが聞こえて、少しだけ救われたような気持ちになる。

『…僕もさみしいです、ハルさんに会えなくて』
「…っ、」
『……お店に行けない分、また電話しても良いですか、ハルさん』

 ああ、どうしよう。こんなの、彼にとってはどうということのない、いつものリップサービスかもしれないのに。もしかしたらこれが彼の本心なんじゃないかって、そう期待してしまう自分を、私はもう止められない。あの夜のように、からかわないでください、と、逃げることはできなかった。こんな甘えるような声で言われて、断れる人なんて、きっとこの世にはいないと思う。

◇◇◇

 カランカランとお店の扉が開く音がして、優雅な空気を纏った男の人が店内に入る。目が合うと彼はいつもの微笑を浮かべて、機嫌良さそうにウインクをして見せた。明日お店に伺えそうなんですが、と、私のシフトを確認する電話がきたのは昨夜のことで、今日は朝から気合を入れていたつもりだったが、約一ヶ月ぶりの彼の姿に、緊張しないと言ったら嘘になる。

「…いらっしゃいませ、」
「こんにちは、ハルさん」
 
 彼に会えずにいた間、ずっと考えていた。私はこれから彼と、どうなりたいのか。私にとって彼がどういう存在なのか。彼にとって私が、どんな存在であればいいと思うのか。
 これまで、二人の距離を縮めるのに、きっかけを作ってくれるのはいつもバーナビーさんの方だった。けれど、今のこの距離感をさみしく思うなら、もっと近づきたいと思うなら、彼がどうにかしてくれるのを待っているばかりじゃ駄目だと思う。これから彼とどうなりたいのか、自分の素直な気持ちと向き合って、自分で次の一歩を踏み出さないといけないんじゃないかと、思う。

「……バーナビーさん、」
「はい?」
「…あの、…おすすめのカフェが、あるんです…」
「……はい、」
「…サンドイッチが美味しいお店で、…」
 
 お会計をもらい、代わりにお菓子を詰めた紙袋をカウンター越しに差し出す、自分の手が少し震えているのが見える。声もなんだかうまく出ない。じっと私を見つめる彼の緑色の瞳に、心臓がどくどくと脈打つ。頬も熱いし、鼓膜もきいんと痺れていて、視界さえも心なしかじわりと滲んでいる。手に握る汗は気持ち悪くて、それでも私は、彼がこちらに向ける穏やかな視線から逃げたりはしなかった。

「……今度、…一緒に行きませんか?」
「…はい、もちろん、喜んで」

 そう言って袋を受け取ったバーナビーさんの笑みが、思わず見惚れてしまうくらい綺麗で、私はそれだけで胸が一杯になった。


20210314
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