いつかのある日、ハルが俺のこの黒髪をとても綺麗だと褒めたことがあった。俺は彼女の透き通るような栗色の髪の方が綺麗だと思ったけれど、 「本当に、羨ましいくらい綺麗」 そう言って彼女が俺の髪を撫でたから、俺は何も言わず、その感触に目を閉じた。それから俺は、この髪を不用意に汚せなくなったし、前よりも少しだけ気を使って髪を洗うようになった。なんとなしに彼女が零した言葉や表情が俺にそんな影響を与えているだなんて、きっと言った本人は気づいていないだろう。いや、最早言ったことすら憶えていないかもしれない。 とにかく、彼女の言葉にはそうやって俺の行動を少しずつ狂わせる、俺にはどうしようもない力があった。それは切れ味の悪いナイフのように鈍い痛みと消えない跡を残して遅効性の毒のように俺を蝕み、少しずつ俺を息苦しくさせていった。今だって俺は、彼女の隣で他では感じることのない息苦しさを確かに感じている。 「ねえイルミ、…する?」 ほら、また───まるで肺を直接圧迫されているみたいだ。ハルはこういうときに決してしたい、とは言わなかった。どうでもいい遊びにでも誘うような軽い口調で、俺の意志だけを確かめるハル。その軽やかな声が、いつも柔らかく俺の気管を締め付けた。大抵の毒には耐性のある俺でも、この毒ばかりには毎度のように苦しめられる。 ここで俺が首を横に振ったら、彼女はどうするのだろうかと考えることもある。あるいは、するかと尋ねてきた彼女に、したいのかと問い返したらどんな返事が返ってくるのだろうかと思う。けれど結局それを実行に移したことはなかった。 「…何を?」 「何?…ふふ、そうだなあ、気持ちいこと、とか?」 ああ、なんて身も蓋もない誘い文句だろう。快楽だけを追い求めるようなその言い方は本当に身も蓋もないと思う。それでも頷いてしまう俺は愚かだ。自覚しているのにやめないあたりが、救いようもなく愚かだ。彼女にするかと問われれば答えは一つに決まっていて、選択肢を持たない俺はどうしたって彼女に敵わなかった。 「…ハル、」 「うん?」 何も言わずに名前だけを呼んでその身体を押し倒すと、ハルは少ししてから俺の意図を察したのか満足そうに口角を持ち上げ、覆い被さるように彼女の上に乗っている俺の髪を耳元から掻き上げた。そのまま引き寄せられるようにして俺は彼女の唇をぺろりと舐める。こういうキスを俺に教えたのは他でもないハルだった。 愛などという不確かで怪しいものを彼女は一欠片も信じていない。彼女にとって意味がないなら俺にとっても同じことだった。いまこの瞬間、確かに互いに向かう感情と熱を孕んだ身体がここにあるということだけが真実で、それだけが俺たちにとって確かなことで───彼女の与えるこの息苦しさから逃れる術を、俺はいつまでも見つけられないでいる。 Never ever call it "love." 20130729 |