ここ歌舞伎町に根を下ろすことを決めてそう間もない、寒い夜だった。しんしんと降り積もる雪がかろうじて街の灯りを反射し、夜闇をぼんやりと明るくしていたが、人通りもないに等しい寂れた道ではその青白さがやけに寒々しく感じられた。そんな夜道に浮かんだ提灯燈に引き寄せられてしまうのは、抗えない人間の性だろう。
 暖簾をくぐると、背筋のピンと伸びた女が穏やかな笑みで「こんばんは」と俺を出迎えた。見たところ、店の者はその女一人のようだった。たった一人で店を回すには、彼女は些か若過ぎるように見えたが、他所様の事情に首を突っ込む気はない。店内には先客が一人、静かに酒を煽っていた。

「何になさいます?」
「…適当に…、何か食わしてくれ」

 流石に文無しというわけではなかったが、寂しい懐であることに違いはなかった。「安いのでいいから」と付け加えると、彼女が「少しお待ちになってくださいね」と微笑んだので、俺は僅かに頷いてみせる。目を引くような器量良しというわけではなくとも、好感のもてる笑顔だし、品の良い女だな、と思う。間も無くして差し出された湯飲みには温かいお茶が淹れられていて、冷えた身体に沁みた。
 喉が乾いていたらしい俺は、あっという間にお茶を飲み干した。彼女はそんな俺の様子をちらりと見ていたようだったが何も言わず、程なくして先程とは味の違うお茶を出した。今度のものは舌を火傷しそうな程に熱かったため直ぐには飲めなかったが、芳ばしい香りを嗅ぎながら湯飲みを握っているだけで、まだ悴んでいた指先が少しずつ感覚を取り戻していった。
 少しして、「どうぞ」と差し出された深めの器に盛られていたのは、おでんだった。独特の出汁の香りが如何にも食欲をそそる。特別腹が空いていたわけでもないのに、口の中に涎が染みる感覚があった。

「試作なんですけど、少し作りすぎてしまって。よかったら味見を」

 女はにっこりと笑い、もう一人の客にも同じように言っておでんを渡していた。長い付き合いなのか、その客とは他愛もない会話をしているようだ。それを横目に、俺は薄茶色く染まった大根を口に運ぶ。こうして温かいものを口にして、ほうっと息をつくのは久方ぶりのような気がした。じわりと滲み出る出汁の味に如何とも形容し難い懐かしさが込み上げて、鼻の奥がつうんとする。こんな痺れるような感傷が自分の中に残っていたのかと他人事のように思う反面、制御の効かない己の情緒に心のうちで舌打ちしながら、俺はゆっくりとそれを咀嚼した。
 それからぽつりぽつりと、やはり彼女と顔見知りらしい客が顔を出しては帰っていくのを見ていて、やはりこの女が店主なのだろうことはなんとなく察しがついた。大繁盛というわけではないが、質の良い常連客をしっかりと掴んでいるのが分かる。料理が云々というよりも、下手に媚びることもなく、気の利いたことを言って客を楽しませている彼女の人柄に客がついているというふうで、素直に大したものだと感心した。
 おでんを食べ終える前に箸休めの胡瓜と、柚子の香る葛湯を出され、とろりとしたその独特の舌触りに再び過去の記憶へと引き戻される。温度のある走馬灯のなかで、どれくらい茫然としていたのだろう。気づけば、細々と途絶えなかった客もいつの間にか皆帰り、残る客は俺一人となっていた。

「……もう行く」

 大した料理も頼まず、こうも長時間居座られちゃあ良い迷惑だったろう。少し悪いことをしたなと思いながらそう言うと、彼女は手際良く動かしていた手を止めて顔を上げ、「はい」と微笑んだ。一向に勘定を言わない女を不思議に思い、勘定はいくらかと尋ねると、「新作の毒味にお金は頂けませんよ」と可笑しそうに笑われた。流石にただで帰るというわけにもいかないだろうと食い下がったが、笑みを浮かべる彼女に太刀打ちはできなかった。しかし不思議と悪い気はしないのだから、やはりこの女には客を惹かす才があるのだろう。

「次はお好きなものを教えてくださいね」
「…もう来ねえよ、」

 背中にかけられた声に、苦し紛れでそう返したが、自分はそう遠くないうちにまたこの暖簾をくぐってしまうのだろうという予感はあった。薄い布をめくったその奥に、ありふれた温かさがあることを知ってしまったから。何度でもその温もりが恋しくなってしまうだろうと、分かっていた。そうしてその年の初夏の頃には、すっかりこの店の常連客になって、「なまえちゃあん」などと甘えた声を出すようになるのだが、このときの俺には当然そんな未来を見通す力は備わっていなかった。


幻灯に燃ゆ
20210414

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