「浮気は良くねえなあ、なまえ」

 音もなく、唐突に私の部屋を訪れた高杉さんが、一体何のことを指して浮気と呼んでいるのか定かではなかった。浮気と指を刺されるようなことをした覚えはなかったし、そもそも、たとえば他の男の人と私の間に何か色めいたことがあったとしたって、高杉さんから浮気だ何だと咎められる筋合いはないのだ。
 私と彼の間に、何か名前を付けられるような、相手に貞節を要求できるような、そんな確固たるものはないはずだ。少なくとも私はそう思っている。しかしそんなことを今ここで馬鹿正直に主張しようものなら、ただでさえ不穏な空気を纏った彼の神経を逆撫ですることになるのは目に見えていた。そうして結局のところ、痛い目をみるのは私の方なのだ。どう考えても理不尽過ぎる摂理だ。

「…何の話でしょう」
「しらばっくれる気かァ?」
「心当たりがないんです!」

 そして私は、彼を前にして自分の感情を制御し、上手く立ち回るような、あるいは大人びた駆け引きができるような器用さも持ち合わせていなかった。浮気なんかしてない。私には高杉さんしか見えていない。貴方にこそそれを知っておいてほしいのに。沸々と湧き上がる、説明のつかない感情を押し込めると、かわりに目頭がじわりと熱くなった。高杉さんは感情的な声を出した私に少し驚いた様子で、間を置いてから「ふん、まあいい」と静かに呟いた。彼のそんな態度に、自分一人が動揺していることを思い知らされて、居た堪れない気持ちになった。
 もし彼が私の浮気を咎めるのなら、日々あからさまな「浮気」をしている彼はなんなのだろう。彼が自室に代わる代わる女の人を呼びつけて、夜な夜な何をしているのか、わからないほど私は馬鹿ではない。彼もそれを隠すつもりはないようだったが、あれは「浮気」ではないのか。それとも彼は、私には貞節を求めながら、自分にも同じものを要求されるのを許さないのだろうか。いや、自分にも同じものを求められていると、思い至りすらしないのだろうか。

「ふん。まあ、口では何とでも言えらあな」

 私は、彼がどれだけ他の人を抱こうがかまわなかった。少なくともそういう態度で彼と接してきたはずだ。たしかに、私には彼の手癖の悪さに口を挟んで不興を買うような度胸なんてないし、だからただ何も言えず、なし崩しにずるずるとここまできてしまった、というのも間違いではない。けれど私は、彼が気まぐれに私の肌に触れる、そのほんの少しの間だけ、夢を見られればいいと思っていた。そう思うしかないから、それで十分だと自分に言い聞かせてきたのだ。
 そんな我ながら健気な気持ちで彼と肌を合わせていたというのに、この仕打ちはなんだ。こんなふうに頭ごなしに移り気な女だと決め付けられ、反省しろと言わんばかりの態度で睨め付けられるなんて、納得いかない。貴方に貞節を求めたりしないから、私を信じるくらいしてほしい。そうじゃなきゃあんまりだ。あまりにも私が可哀想だ。

「言っとくが俺ァ一途な女が好みだ」
「…わ、私だって、…っ」

 一途な人が好きだ、と言いかけて、途中で辞めた。私は決して一途な人が好きなわけじゃない。私は高杉さんのことが好きで、高杉さんが一途な人であったらと思うだけなのだ。彼が私だけを見てくれたらと思う。貴方に一途でいてほしいと言えたらどんなにいいか。でも、高杉さんが一途な人じゃなくたって、彼のことが好きな自分をどうすることもできない。彼だからこうも感情を揺さぶられるのだ。だから困っている。
 何も言葉を継ぐことができず、私は黙り込んだ。言いたいことはあるはずなのに、何も言葉にならない。私は彼だけを想っている。こうして彼が私の気持ちを疑っていても、疑うだけの興味をもってくれているのだというだけでぎゅうと心臓が痛むくらいに、彼を想っている。たとえその興味が、自分の所有物が他人に奪われるのを拒むような、単なる所有者としての独占欲でもかまわない。
 自分はこんな、絵に描いたような馬鹿な女にだけはならないと思っていた。何の根拠もなくそう信じていた頃が懐かしい。けれどこの世には、決して抗うことのできない引力が存在する。愚かだと分かっていても、彼の指先が、彼の興味が私に向かっているという事実だけで歓喜してしまう自分を止められない。矛盾する感情に雁字搦めになって、どれだけ苦しくても、彼が肌に触れるのを私はいつも拒めない。今も。慣れた手つきで私の顎を持ち上げる彼の手を拒めない。彼に見つめられると、蛇に睨まれたように動けなくなる。肌が粟立ち、じわりと汗が滲み、心臓が鳴る。

「…私だって、なんだ。一途な男が好きなのか?」
「……そりゃあ、取っ替え引っ替えの人より、一途な人の方がいいです」

 私の言葉に少しでも耳を貸してくれる気があるかのような彼の口調に、なんとか強気を装ってそう言うと、高杉さんはさして興味もなさそうに「そうかい」と鼻で笑った。なんなんだ、本当に。くっと口端を歪める彼の雰囲気は、彼がこの部屋を訪れた当初よりも随分と柔らかいものになっている。私にとってこの問題は一片たりとも解決していないし、弁明すらしていないというのに、彼はそんなことおかまいなしでなんだか全てが解決したというような顔をしている。猫でも愛でるように私の顎を擽り、頬を撫で、満足げに目を細める。その表情だけで、私は胸がいっぱいになる。
 彼に呼び起こされた嵐のような感情は、一向に収まっていない。私の苛立ちも、嫉妬も、悲しさも、情けなさも、口惜しさも、何一つ彼は昇華してくれはしない。それでも私は、ただこうして彼の瞳に自分が映っていることを確かめて、心臓を痛めつけられている。そんな自分をどうにもできない。彼のこともどうにもできない。こんな暴力があるだろうか。

「…そう睨むな」
「……睨んでません、」
「そうかい」

 そっと唇をなぞられて、背筋がぞわりとする。私の身体は、私のものでなくなったかのように動かない。身体を動かそうと頭を働かせることもできないでいる私に、彼はその指先だけで、口を開けろと命令する。私の呼吸は浅くなり、彼の赤い舌が遠慮なく咥内に入り込む。熱い。苦しい。泣きたい。こんなふうに、優しく触れられると堪らない。
 口を塞がれながら、彼の長い指で耳を優しく擦られて、ぞくぞくと下腹の奥が疼く。彼が欲しい。触ってほしい。与えられたい。そんな私の欲求を見透かしたように、彼の膝が私の脚の間に入り込み、ぐい、と秘部に圧をかけられて、私は溜息のような喘ぎ声を漏らした。ああ、もう駄目だ。滅茶苦茶だ。耐えられない。堰を切ったように涙が溢れる。口付けの合間に嗚咽が漏れる。息苦しさが募っていくが、いつの間にか頭の後ろに回されていた彼の手が、抵抗するなと言わんばかりに私の髪をぐしゃりと乱す。

「…なまえ」
「、っ、はぁ、…なんですか、」

 ようやく許された酸素を必死に肺へと送り込み、なんとか呼吸を整える私に、彼はすうっと目を細める。しばらく何も言わずに私の髪を弄んでいた彼の手が、もう一度私の顎を持ち上げる。緩慢な動きで喉元へと下った彼の指先に、皮膚の上からじんわりと気道を押し潰されて、未だ整わない呼吸が一層浅くなる。苦しい。苦しいのに、目の前にある彼の唇が濡れているのを見て、もう一度この口を塞いで欲しくなる。馬鹿馬鹿しい。

「くっくっ、お前は本当にすぐ泣くなァ」
「誰のせいで…っ」
「…まあ、好きなだけ泣けばいいが…、浮気はするなよ」
「して、ません、…っ」

 どうしてそんなことを言うのだろう。私の全てをこんなにも掻き乱し、奪い、僅かな抵抗すらも許さず我がもの顔で扱っているくせに。全部自分のものなのだと、私の身体にも心にも遠慮の欠片もなく刻みつけるくせに。
 訳がわからない。何を言えばいいのか、何をすればいいのか。どうすれば彼が満足するのかも、自分が何を言いたいのか、どうしたいのかも。分からないことばかりで、涙がまた溢れ出す。そんな私を彼が感情の読めない顔で真っ直ぐに見つめている。何も言葉にならない。何も考えたくない。ただ中毒性の高いこの男のせいで、心臓が痛い。

逆さの鱗
20210308

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