名残惜しさを感じながらゆっくりと腰を引くと、ぬぽん、となんとも間抜けな音がした。息を詰めていたなまえが微かに漏らした甘い溜め息に、ぞくりと脊髄が震えるのを無視して、端を縛った用済みの避妊具をゴミ箱に放る。じっとりと汗ばんだ肌が少しずつ冷えていくの感じながら、瞳を閉じたままの彼女の横に転がるとなまえが静かに息を整えようとしているのが聞こえた。彼女の頬には汗に濡れた細い髪が張り付いていて、僕はそれをそっと耳の後ろへと梳いてやり、未だほんのりと上気したままの薄紅色の頬にやはりそっと唇を落とした。
 彼女の瞳は閉じられたままだった。その瞼の裏に彼女が今何を描き、何を思っているのか、想像も出来ない。彼女が本当は何を考えているのかなんて、欠片も知り得ない。だからなのかも知れない、その白く滑らかな皮膚に少しでも長く触れていたいと願うのは。その内部に侵入して最奥を暴き、彼女の感情まで思いのままに揺さぶりたいと渇望してしまうのは。彼女を前にすると、自分がまるで欲望を制御できない子どものように思える。

「……今夜はこのまま泊まっていきますか?」

 シーツにくるまったまま微睡んでいたなまえに声をかけると、彼女は少し掠れた声で大丈夫、と言って、猫のようにうんと身体を伸ばした。とろりと眠そうな眼をしたまま気だるそうに散らばった下着を探し始めるなまえのその白い肢体を、できることならこのベッドに縫い止めてしまいたい。もう一度その温もりを、熱を、心ゆくまで味わいたい。そんな熱いような冷たいような感情がせり上がってきたのを誤魔化しながら、僕は深く息を吐き出した。

「…もう電車もないですよ」
「あ、そっか。…下にタクシー呼んでくれる?」
「…本当に帰るなら、僕が送りますよ。でも…貴方のオフィスまでなら、此処からの方が近いんじゃないですか。泊まっていけばいいのに」
「同じ服で出社したくないの。ふふ、ごめんね」

 駄々をこねる子どもをあやすように彼女は額にキスをして、裸足のままぺたぺたと音を立てながら部屋を出た。しばらくして聞こえてきたシャワーの音に、遣る瀬無さを押し込めて短く息を吐いた。あんな会話は無意味だとわかっている。ここに泊まりたいと本当に思うなら、彼女は着替えも何も必要なものを全てここにおいてそうするだろう。そうしないのは、つまりそうする意志がないだけなのだ。それが彼女なりの、この関係性に対するけじめなのだろう。
 お互い、それなりに大切に思い合っていることは分かっていながらも、恋人として愛を語ることもなく、都合のいい時に肌を合わせるだけの、この曖昧な関係に対する線引き。毎夜のように悪夢に苦しめられていた頃、人肌の温もりが欲しいという理由だけで優しい彼女のことを抱いたあの夜からずっと、なまえがその線を踏み越えたことはない。彼女のそんな生真面目さに考えを巡らせるうち、気付けばベッドの上に残っていた温もりがほとんど失われていた。

▽▽▽

 僕が適当な服を羽織ってリビングに向かう頃には、シャワーの音も止んでいた。冷蔵庫からペリエを出して口をつけると、そのままごくごくと一気に半分ほど飲み干してしまった。思っていたよりも脱水気味だったらしい。少しだけ脳がすっきりとして、僕はどうするべきなのか、どうしたいのか、彼女との関係とその未来を真剣に考えるべきときがきたのかもしれない、と思った。
 まったく、我が物顔でこのキッチンに立つ香水臭い女たちに辟易していた頃が嘘のようだ。いや、今だって、なまえでなければ朝まで側にいて欲しいなんて思わないんだろう。彼女だけが僕の望む温もりを与えてくれるのに───彼女はそれを、決して欲しいままにくれたりしない。今の僕には、なまえの温もりを感じながら朝を迎えられたらどんなに幸せかと、夢想することしか許されていないのだ。けれどそれだけではもはや、僕は満足出来なくなっている。ぬるま湯のようで心地良かったはずのこの関係が、今ではこんなにも残酷で、不自由に感じられる。それはやんわりと首を絞められ、優しく呼吸を奪われているようでさえあった。

「タオル、勝手に借りたよ」

 そう言いながら、シャワールームから出てきたなまえは湯気を纏いつつも、この部屋に来た時と同じ洋服にきっちりとその身を包まれていた。そのままこちらに近づいてきたので、手にしていたペリエを渡すと彼女はありがとう、と言ってそれを口に運んだ。ブラウスの隙間から覗く喉元が微かに蠢くだけで、卑猥だ。

「…なまえ」
「なあに、?」

 こてんと首を傾げるなまえの、湿った頬に手を伸ばす。しっとりと吸い付くような肌を感じながら、親指で唇をなぞると、彼女の口が僅かに開いた。ゆっくりと顔を近づけてもなまえが拒む様子はなかったため、それをいいことにそのまま僕は静かに唇を触れあわせた。先ほどのまでベッドの上で交わしていたような貪るような荒々しいものではなく、慈しむように、優しく。ぺろりとピンク色の唇を舐めて顔を離すと、なまえは僕の意図が分からないという顔でこちらを見上げている。

「…たまには我儘を言ってもいいって、前に言ってくれましたよね…?」
「…?まあ、」

 返ってきた曖昧な答えに微笑みを返して、僕はそのまま目の前の小さな身体を抱き締めた。もうこの先に、誰かを愛することはないと思っていたのに、今は、この温もりが他の誰かのものになるなんて考えられない。2人で過ごす夜を待ち焦がれる独りの夜がもう、耐えられない。僕が彼女を特別に思うように、彼女にとっての僕も特別なんだという確固たる自信が欲しい。
 そんな気持ちを吐露して、君はどんな反応を見せるだろう。照れたように笑って受け入れてくれるだろうか。それとも、僕を傷付けないように気を遣いながら優しく拒絶するのだろうか。ああ、受け入れてもらえるか分からないというだけで全てがこんなにも恐ろしいなんて。この溢れる感情をただ言葉にするだけなのに、臆病な自分が、頭の奥でそんなことはやめた方がいいと警告している。不用意な発言でこの関係すら壊れてしまったら、僕と彼女の間には何も残らないのだと、必死で叫んでいる。それでも貴方だけは、この世界の何よりも愛おしく、どうしても必要なんだと、伝えなければ。祈るような気持ちで彼女を抱く腕に力を込めると、なまえはいよいよ心配だという声でどうしたの、と尋ねてきた。ぐるぐると渦巻く感情を何と言葉にしたらいいのか分からないまま彼女の柔らかな髪に触れると、少しだけ気持ちが和らいだ。

「……貴方を、…愛しています」

 たったそれだけ口にするのに、心臓がうるさいほどに鳴り、足元がぐらぐらと揺らいで、軽い目眩すら覚えた。こんなにも心臓に悪いことは二度とごめんだと思いながら、彼女の髪にゆっくりと指を通す。だから帰らないで、と、何とか紡ぎ出した言葉は情けないほどに震え、掠れていた。どれくらいそうしていたのか、彼女の反応を恐れるあまり永遠にすら感じられた静けさの後、なまえがとんとん、と僕の背中を叩いたので、それを合図に少しだけ腕の力を緩めた。
 僅かに身体を離したなまえと目が合うと、すっと背伸びをした彼女が一瞬だけ僕の口を塞いだ。僕を許すような、あの日のただ優しいだけの笑みとは違う、温かな微笑みを浮かべたなまえに、瞳がじんわりと熱くなるのを止める術はなかった。僕と同じく瞳を濡らしながら、私も愛してる、と囁く彼女の声を、僕は一生忘れないだろう。

愛は静謐のモルヒネ
20181228

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