彼は所謂、悪人というやつなのだと思う。別に誰かがそう言っていた訳でも、まして本人がそう言った訳でもない。けれども、彼の纏うどこか張り詰めたような、飄々とした気配は常人のものではなかったし、隻眼というのも相俟って彼はどうにも普通の浪人のようには見えなかった。ただ私は、その所謂「悪人」というものが本当の「悪い人間」と同義であるのかどうかについては甚だ疑問であった。
彼は私の働く茶屋にしばしば顔を出す、言ってしまえば上客というやつである。食い逃げすることもなく、他の客と喧嘩することもなく、五月蝿く女に絡むでもなく、むしろ品格のある佇まいで店先の床机に腰掛け、夕暮れを眺めている姿が印象的な客。名前すら聞いたこともなくて、はっと気がつくと十分過ぎるお代を置いてその姿を消してしまうようなこともしばしばあった。
「いらっしゃい、こんにちは」
「…茶と、何か甘いモンを」
「はい」
彼と私のやりとりは短い。彼は店先に腰掛け、私が挨拶をすると、はじめて来たときから変わらない注文が返ってくる。茶屋にきておいて茶の種類も甘味の種類も指定しない彼に、私はいつもその日おすすめの和菓子とそれに合うお茶を出していた。特にこだわりはない、店の人間が出すやつが一番だろうなどと言われれば多少緊張して選ぶのは当然だろう。
彼の好みは善しか悪しかがはっきりしていて分かりやすかった。気に入れば全て食べる。気に入らなけらば一口で残す。残すことはあってもそれで文句を言うわけでもなく、お代を払わないわけでもないのだから、益々気を遣ってしまう。そのお陰で私も今ではすっかり彼の好き嫌いを把握し、最近では残されることはあまりなくなった。菓子に季節ものを出したり、珍しい茶を淹れると少し表情が緩むのには少し前に気がついた。熱過ぎる茶を出すと冷めるまで菓子にも茶にも手を出さないので、彼は見かけによらず猫舌なんじゃないだろうかと思う。
「…蜩が鳴いてやがるなあ」
「…もう、夏も終わりですかねえ」
独り言とも何ともつかない彼の呟きに短い会話を何度かした程度で、私がこの男について知っていることなんて、何もないに等しい。彼はきっと悪い人で、でも根はそこまで悪いというわけでもなくて、多分少し猫舌で、それなりに風流な人なのだろうと予測しているだけで、それが本当かどうかも分からないのだ。
それなのに、彼は、唐突に仕事帰りの私の前に現れた。人通りも少ない薄暗い小道。笠を被った派手な着物に、あの人だとすぐに分かった。夜に見る彼は昼間にも増して常人とは違う気配を放っているように見える。
「……よお」
「あ…、こんばんは」
名前も知らない、奇遇ですねというにはあまりにも私を待ち伏せるように立っていたこの男。ああ、やはり彼は悪い人で、悪い人間で、危険で、そういう場合これは逃げた方が良い状況なのかも知れない。そう考えながらも、私はつい平凡な挨拶を返した。足は竦んでしまって動きそうにない。助けを求められる人が通りがかるような道でもない。
「…そこで蝉が死んでいた」
唐突に現れた男は、唐突にそんなことを言った。
「はあ…まあ、生き物ですからね」
私はやはり平凡にそう返した。彼は、死んだ蝉がいるらしい地面をちらりと見た後、どこか感情の読めない目をして私を見つめた。死んだ蝉が彼にとってどんな意味を持つのか私には分からなかった。何を言うべきなのか。何も言わないべきなのか。分からないで、私はただ彼と見つめ合った。
目の前にいるこの男は、一体誰なのだろう。この哀しそうな眼をした青年は誰なのだろう。あの、途方に暮れた迷子のような背中で、夕暮れを眺めていたのは誰なのだろう。彼について知りたいと思うのに、私は呼び掛けるための名前すら知らなかった。
「…あの…、…お名前を伺っても?」
「ふん…名前が聞けりゃあ満足か?」
まるでそんなものは本質ではないとでも言うかのように鼻で笑ったあと、高杉晋助だ、と彼は何の衒いもなく言い放った。それを聞いて、私はどこか納得がいったような気持ちになった。彼はやっぱり世に言う「悪い人」だったのだ。客としては上客で、少し風流で、珍し物好きで、子供のように好き嫌いをして、猫舌でも、世間では指名手配の犯罪者。
「…高杉さんは、こんなところで何を」
「言ったろう。死んだ蝉がいたってな」
それは事実であって私の質問の答えではない、などというツッコミはこの人には受け入れて貰えそうにない。この人はその蝉とやらに同情でもしたのだろうか。過激攘夷派の指名手配犯が、死んだ蝉に情をうつして墓でも作る気なのだとしたら、この人は世間で言われる程悪い人間というわけではないのかもしれない。
けれども、お墓でも作るんですかと問いかけると彼は一瞬変な顔をして、次の瞬間くくく、と喉の奥で笑い出した。変な事を言いやがる、と楽しそうに口端を歪める姿はどこか無邪気で、極悪人の想像図とは掛け離れている。そんなに変なことを言ったつもりではないのだけれど、どうにも彼のツボに嵌ったらしい。
「くく…、生憎、そんな義理はねえなァ」
「…じゃあ、何か悪いことでも企んでいるんですか」
「ふん。悪いかどうかを決めるのは人だろうよ…お前が善といえば善、悪といえば悪だ」
それは確かに正論だった。攘夷派と呼ばれる彼のやっていることは、きっと彼や、彼の仲間にとっては善なのだ。彼らは別に悪い人間ではない。だって、本当の攘夷派の人達よりも、町に暮らす身としてはその辺にいるチンピラ浪人の方がよほど怖いし、理不尽だ。
彼は確かに指名手配犯だけど、それはただ世間や政府と信念を違えているというだけの話で、彼自身が、人間的に悪であるいうわけではない。だからこそ彼について行く人間がいるのだと思う。ついて来る人間がいるから、彼は止まれないのだと、思う。
「それじゃあ、何か善いことを企んでいるんですか」
「どうだかねえ…」
夜風が吹き抜ける。風の吹く方を向いて髪を揺らす彼の横顔は、やはり迷子のように不安気で、哀しそうで、途方に暮れている。私は彼に何を言えばいいのか分からなかった。高杉さんは何故、私の前に姿を現したのだろう。死んだ蝉を眺めていたのは、何故なのだろう。
「…随分遠くまで来ちまったもんだ」
蜩が鳴いている。夏が終わるらしい。彼は少しの間沈黙してから私に一瞥をくれて、徐に歩み寄ってきた。何をされるのかと少し緊張した私の横を、彼はするりと通り過ぎてゆく。お前の茶は美味かった、とすれ違いざまに囁いた彼から、夜風に乗ってふわりと紫煙の香りがする。そんな格好いい別れの言葉みたいなのは言わなくていいのに、と私はなんだか少し泣きたくなった。
彼がその後、店先に姿を見せることはなかった。何か大きな騒ぎを起こしたらしいことを私は後から知り、あんなにも何処かに帰りたがっているように見えた彼のことを考えた。またいつの日か会えたら、温かいお茶と、お菓子と、ご飯くらいは食べさせてあげたいなあと思う。あの人にもいつか、安心して帰ることのできる場所が見つかればいいなあと、思う。せめて誰か、彼の側に寄り添う人がいればいいと、なぜだか私はわりと切実に願っていた。
日に没す
20150813