唇の柔らかい感触と、ほのかな温かさ。そっと身体を引いて目蓋を持ち上げると彼女の長い睫毛の下の茶色い瞳と目が合った。澄んだ硝子のようなそれは、俺を咎めているようにも赦しているようにも見える。
「…ぁ…その、……悪い」
咄嗟に零れた謝罪は、言った直後に後悔した。男が女の唇を奪っておいて、悪い、ってなんだ。格好悪過ぎるだろう。こんなふうに不意打ちで唇を重ねるような真似をしようだなんて欠片も考えてはいなかったので、どうにも動揺しているらしい。
なんというか、そう、魔が差したのだ、きっと。初めて招かれた彼女の家で、二人きりで盃を交わしていて、縁側に座る彼女との距離が思いのほか近くて、彼女が自然な上目遣いで俺を見ていて。ましてその唇が濡れていたから、気付いたら顔を寄せていた。完全に、無意識だった。
「…ふふ、変なの。…どうして謝るの?」
「え?…いや、その…なんつうか」
そりゃあ、恋人でもないのに嫁入り前の娘の唇を奪うっていうのは倫理的に咎められることだろう。いやもちろん俺だって何の感情もなくした訳ではない。俺は彼女に好意がある、けれども、彼女の方はどうか知れない。好きでもない男に口付けられていい気分になるはずがないし、俺の謝罪はそのことに対する懸念から零れたものだった。
「……銀さんは、その気がない女の人にも…その、こういうことするの?」
なまえは口を噤んだままの俺にそう言って、じっと此方を見つめている。───ああ、また、その瞳。俺の思考を掻き乱すその硝子。俺の建前だとか計算だとかそういうものを全て見透かして、恥ずかしい本音を暴こうとする彼女。隠し通したい。でも、暴かれたい。
「…なまえちゃんには、銀さんがそんな男に見えんの?」
これは狡い答え方だ、と我ながら呆れた。薄っすらと笑みにならない笑みを浮かべながら質問に質問で返して、向こうの出方を見るなんて全くもって情けない。汚い大人のやり方だ。
俺は彼女の前ではどうにも格好がつかないことばかりしてしまう。好いた女にこそ少しでも格好良い大人、いや、格好良い男として認識されたいのに、物事上手くはいかないものだ。
「見えない、けど。…銀さんは誰にでも優しいから」
「…え?」
「今だって、ただ、優しくしてくれただけかも知れないし、…そうじゃないかも知れないし…、…分かんないよ」
いまいち的を得ない言葉に俺は少しばかり理解に時間を要したけれど、俺なりに咀嚼する限りでは、今の反応はそこはかとなく俺の都合の良いように解釈できる。不意打ちの口づけを「優しくしてくれた」などと表現する彼女の気持ち。一度そう考えてしまうと、俺の都合の良い頭は別の解釈を見出せなくなった。勘違い、じゃないよな、これは。
誰にでも優しい、訳がない。下心があるから、彼女には優しくしていただけだ。今のだって、彼女の思うような意味で優しくしたわけじゃない。彼女の気持ちなんて関係なく、ただ欲望に身を任せてしまっただけだ。
「ばかだねえ、なまえちゃん」
「…、銀さん?」
華奢な肩をとん、と押した。細い身体は簡単にバランスを崩し、そのまま彼女の上に覆い被さると、大きな目を更に見開いて彼女が俺を見上げる。少し怯えたように揺れる虹彩が余計に俺の中の凶暴さを煽った。
彼女の気持ちが此方に向いていると分かった途端にこうも強気になれるのだから、全く俺も単純だ。そう心の中で苦笑しながら、戸惑うなまえの小さな耳に唇を寄せて、囁く。───銀さんはね、好いた奴にしか優しくしねえ主義なの。すると彼女は、瞬く間に頬を色付かせ、瞳をじわりと潤ませた。ああくそ、なんだその可愛い反応は。
「……優しいよ、銀さんは」
「はは、…そう思う?」
「うん。…でも、優しくなくても、…きっと好きになったよ」
自分の下で、迷いなくそう言い切って照れたように柔らかく笑う彼女に、心臓が鷲掴まれた気分だった。そんな顔で、好きだなんで言うのは反則だろう。これ以上俺の本性を暴き立てるのは勘弁して欲しいと思いながら、俺はゆっくりと、確かめるように唇を重ねた。鼻腔を擽るなまえの匂いは、綻び始めた花のようだった。
万華鏡を覗き込んだ日
20140924