どかりと効果音のしそうな勢いで私の隣に腰掛けた兵長に、ソファが一瞬沈み込む。私は虫の居所でも悪いのかと資料から目を離して顔を上げた。
もし機嫌が悪そうならば身の安全のために即刻退散しなければと思ったが、彼はなんでもないような顔で正面の壁を見つめている。その横顔の奥底に、きっと兵長は計り知れない思いを抱えていることだろう。けれど今、それは深い湖の水面のようにただ静かに凪いでいる。
「……兵長、血が…」
彼の頬にある切り傷に気付いた私は、そう言いながら半分無意識に兵長の顔へと手を伸ばした。正確には、彼の頬にある一筋の赤い傷に。兵長は怪我の少ない人ではあれど、決して怪我をしない人ではない。
兵長は私の指先がそこに触れる前に、無駄のない動作で伸ばした私の手首を掴み、少し疲れたような顔でこちらを睨んだ。
「…手当するほどのモンじゃねえ」
そのまま乱暴にはらわれるかと思った私の左手は兵長に掴まれたまま行先を失った。そうして数秒の間、私は兵長に片手を掴まれ、見つめられたまま、微動だにすることができなかった。兵長の掌の熱さが、彼の行き場のない苛立ちを伝えてくるような気がする。
この切り傷はきっとかなり深いだろう。壁外からここへ戻ってきて、今までの間に塞がらなかったのがいい証拠だ。彼は手当無用と言うけれども、しっかりと真皮まで切れているに違いない。
「……リヴァイ、兵長」
「…なんだ」
「消毒だけでもしてください」
彼の瞳を見つめたままもう一度そう言うと、兵長が腕を握る力を少しだけ強めたのがわかった。了解の合図なのか、拒絶なのか、それともどちらも全く違うのか、こんなに近くにいてもわからないことだらけだ。昔の彼はもっと直情的で分かりやすかった気がするのに、と思うと少しだけ寂しいような気持ちになった。
「……お前はいつもそうだな、なまえ」
「え、?」
「…いつも不用意に俺に近づくだろう」
言われて自分の行動を振り返る、けれど、彼の「不用意に」という言葉の真意は図りかねた。ただ、私があなたに近づくのは、あなたを心配しているからだ。その揺らがぬ湖面の下で渦巻いているだろう激流が、あなたを傷付けてはいないかと危ぶんでいるからだ。その瞳からあなたの感情を少しでも読み取れないかと考えているからだ。
色んな理由が思い浮かんだが、私はどれを伝えればいいのか判断がつかず、結果彼の瞳に吸い付けられるようにしたまま何も言うことができなかった。
「…そんなに近づいていいのか。俺は何をするかわかんねえぞ」
凶悪な三白眼がじっと私を睨みつける。心臓を貫くような眼光だ。この忠告はなんだ。何か脅しのつもりなのかもしれないが、私には彼になら何をされてもいいという覚悟がある。
人類に捧げた心臓は、そのまま人類の希望に、人類最強に捧げたのだ。これは忠誠であり、敬慕であり、そしてきっと、愛だ。私は兵長に、一つの言葉では表せないような感情を向けている。
「…私は、兵長になら殺されてもいいと思っていますから、何をされてもかまいません」
「…ふん…、馬鹿が、」
だから、そうやって不器用に口端を歪めるその顔を見られれば、私はただそれだけで幸せなのだ。
細胞の有神論
20131210