ふっかつのじゅもん
あっという間に失われていくホットミルクの温もりを追いかけるように何度もマグカップを口に運ぶ夜。
しゅわしゅわと湯気を吐き出し、乾いた冬の空気をしめらす加湿器の音にそっと耳を傾けながら久々に日記を書いています。
お元気ですか。
お久しぶりですね。
そう問いかけるには世界は変わり過ぎてしまったのかもしれません。
雑踏で足を止めたとき、目に映るのは行き交う人々の残像。思い出だけを心に残し、ここではないどこかに私が知る人々は向かわれたのでしょうね。今までも多くの旅立ちを見送ってきた身として寂しさと喜びが混ざり合った不思議な気持ちを抱えています。
私自身も一度、この場所を後にしたわけですが……また戻ってまいりました。
理由を語るとするなら、それは美しい過去に縋りたい……というより、失った自分を拾いに来たといった方が正しいでしょう。
いま、私はだだっ広い海の真ん中で途方に暮れているところです。
これはあくまで比喩であって事実とは異なるものの、紛うことなき真実でもあります。今の私の心象風景として目の前に広がっているのは、果てのない海と地平線。いったい自分がどこにいるのか、どこにいけばいいのか……ちっとも分かっていない状況です。
迷子、というよりは漂流。
時代やら時間やら社会やらの荒波にこの部屋ごと押し流され、気付いた時には海のど真ん中。
片付けても、片付けても、永遠に散らかり続けるテーブルはまるで荒れ狂う海の中に置き去りにされた船の甲板のよう。気を抜いたら沈没してしまうのではないかという恐怖に苛まれながら必死に舵にしがみついて過ごす日々……そんな状況では日記帳を広げる暇もなく、昨日の天気を忘れ去りながら今日の空模様と波の具合を窺うのみ。
それでも相変わらず部屋の窓から見える夕陽は美しく、心に広がる海の波間すらも赤々と焼いていました。
定規を当てたかのようにまっすぐに引かれた地平線の下へと煌々と燃える陽が沈んでいってしまうまで、私はそれを眺めていたいと望みますし、その光景を眺めるだけの時間があったからこそ私は明日へ進むことが出来ました。
しかし、このままではそれすらも失ってしまうのではという予感が過るようになってきたこの頃。
たとえば、喉が渇いたとき。
さて何を飲もうかと考えたときに思いつかない。
仕方ないから適当に目についたものを流し込む。
そうすれば簡単に喉の渇きはおさまります。
ただ、その味も匂いも色も何一つ覚えていない。
空になったマグカップを前に呆然としました。
それに気付いたきっかけすら、思い出せません。
その瞬間、私は私を見失っていたことを思い知ったのです。
この世界に、社会に、時代に抗うことなく、自分を溶け込ませようとティースプーンを掻き回すような日々を過ごしていたのでしょう。それは努力でした。生き残るために前向きに頑張っていたつもりでした。
けれども、このまま掻き混ぜ続ければ私の心は私のものではなくなってしまうやもしれません。
この予感には何の根拠もありません。
大袈裟過ぎる考えなのかもしれません。
しかし、間違っているとも思えない。
ノイズキャンセリングでも心の中に鳴り響く警鐘をなかったことには出来ません。
求められていないのに言葉を紡ぐこと。
時間がないのに無駄な思考を重ねること。
答えが出ないのに永遠と悩み続けること。
生きるためには不要だと思っていたもの、どうにかして手放そうとしていたことこそが、実は私≠形作っていたとしたら……。
途方もない不安の中で明滅する真実の卵。
それを抱えて私は再びここに戻ってきました。
ここにあるのは、過去に私が紡いだ言葉の数々と繋がりの残骸。そのどれもがとりとめもなく平凡な日常の中で生まれる泡のようなものでしたが、それらは自分でも気付いていなかった傷や孤独に寄り添い、私の心を慰めてくれました。
そうして過去の言葉を辿りながら私は悟ります。
美しいだけの言葉も。
止まることを知らない思考の渦も。
ただひたすらに思い悩むだけの日常も。
何もかも私が私であるためには必要不可欠だった。
それを手放さないためには勇気と力が必要です。
そして、その勇気と力を手に入れるためには自分なりの方法で冒険を続けていくしかないのです。
これから先も窓から見える夕陽を美しいと感じ続けるために、その夕陽の美しさを誰かと分かち合えるようにするために、かけがえのない瞬間を過去に封じ込めずに未来へと連れていくために……私はまた冒険を始めることにしました。
他ならぬ、自分のために。
けれどもこの冒険の記録に一瞬だけでも目を留めて下さる方がいらっしゃれば、通りすがりの旅の者としてこんなに嬉しいことはありません。
……ああ、貴方もまた途方もない旅の最中にいるのだと励まされ、この真っ暗な孤独の道を少しはマシな気持ちで歩みを続けられるような気がします。
だからこそ私は未来の私を含めた誰かに向けての言葉をこれから少しずつ紡いでいこうと思います。
……さて、相変わらず前置きが長いこと長いこと。
自分でも呆れていますが、昔からずっとこうなのでもし新たに私のことを知ってくださった方がいらっしゃればどうか諦めてくださいというしかありませんね。
そして、ここまでお付き合いしてくださったことに心からの感謝を述べさせて下さい。
貴重なお時間を割いていただき、ありがとうございます。暇潰しになるかどうか分かりませんが、どうかこれからも宜しく……とお願いする前に言わなくてはいけないことをすっかり忘れていました。
はじめまして。
浅葱佳月と申します。
人生という迷宮に挑むしがない冒険者のひとりです。
改めまして、これからも宜しくお願い申し上げます。