「クリスティーヌ」
舞台袖。
もうすぐ出番だと自分に気合いを入れてる途中、バレエ講師のマダム・ジリーに話しかけられた。
「はい、なんでしょう」
「お前は曲の中盤で少々ゆっくりとしすぎるから、そこだけ意識して直しなさい。そしたら完璧よ」
「はい!わかりました」
稽古から言われていたことだ。
クリスティーヌは、その言葉を胸にしっかりと仕舞い、気合いをいれる。
マダム・ジリーはクリスティーヌの耳元に近づき、誰にも聞こえないように言った。
「…………あの人が来てるわ。こらからも精進なさい」
そう言い終えるとマダム・ジリーはそのまま舞台裏に言ってしまった。
マダム・ジリーがエリックの事を知っている数少ない人間だとは少し知っていたが、何故今更言ってくるのだろうかクリスティーヌには理解出来なかった。
「クリスティーヌ、行くわよ」
「ええ」
メグがクリスティーヌに話しかけ、クリスティーヌは気持ちを一気に切り替える。
(完璧に踊るわ。見ててね、エリック)
数人の踊り子達と、一気に舞台へと登場する。
上からのライトが眩しく、一瞬客席が見えなかった。
だが、踊っている最中でも、五番のボックス席に座っている男だけはハッキリと見えた。
滑らかな演奏に合わせて、踊り子は踊る。
クリスティーヌはマダム・ジリーに言われた事をしっかりと思い出していた。
ーーーーーー
「クリスティーヌ、率直に言おう。着実に上手くなっているな」
「本当?」
「ああ。まだ完璧だとは言えないが、あれくらいなら対したものだ。今夜のソロも、短いながら良い出来だ」
オペラに関して厳しいエリックが褒めた。
ここはオペラ座の地下で、真紅のソファーに座っているクリスティーヌにそう言った。
ここまで褒められるとは思っていなかったクリスティーヌは、ただただ驚くだけだった。
「特に…愛の歌は珠玉に値するものだ」
隣に座っているエリックは、クリスティーヌの頬にくちづけながら、にこりと微笑んだ。
「言い過ぎよ」
「…お前は美しい。この白い首筋に赤いキスマークをつけられないのが悔やまれるな…」
「どうしたの。いつもの貴方じゃないわ」
クリスティーヌはエリックを見ると、少し泣いているのを理解した。
「どうして泣いているの?」
「さぁな…気にするな」
そういうと、エリックは貪る様にクリスティーヌの唇を塞ぐ。
「ん…」
エリックはクリスティーヌの唇や舌をしばらく味わったあと、ゆっくりと離した。
「今日は、もう終わりにしよう」
それはクリスティーヌに向けたものでは無く、自分に向けたものだった。
今ここで抱いてしまうのは些か性急だ。
もっとゆっくり大切に扱わなければ、せっかく手に入れた愛する者を壊してしまうことになる。
「そう…」
クリスティーヌがそう呟き、エリックはぐっと悲しくなった。
自分がこれ以上進めるのを辞めたのだ。
何故こんな気持ちになる?
行き場のない感情を、密かに歯を食いしばる事で誤魔化していた。
fin