98、空を映す


巨人ブロギーの元から見事抜け出して、ジャングルに足を踏み入れたナミとウソップは、ずっと我慢していた恐怖の喚きを発しながらがむしゃらに真っ直ぐ走り続ける。
だが、あまりにも必死に足を動かしすぎたために、ウソップはもつれてしまって盛大に顔からずっ転けてしまった。彼の動きに合わせ、ナミも足を止めて激しく乱れた息を整える。こんなにも走ったのはいつぶりだろうか…、心臓が破裂しそうなほどに悲鳴をあげている。

「とにかく…ハアッ…逃げ出せたわ…」
「少なくとも巨人の胃袋からは遠かったわけだ…ハア…、」

ひりひりと顔が痛むが、死と比べるとその痛みの方がずっとマシだ。
ウソップは地面に顔を埋めたままこもった声を上げた。このまま少し息を整えてから船を目指そう。どちらともがそう思い、肩の力を抜いた時。ウソップの背中にぽたりと雫が落ちた。

「ひっ、」

背中で感じたそれは、雫と呼ぶには生暖かすぎる。なんだか、嫌な予感がする…。怯えるナミの気配が肌に触れ、顔を持ち上げてみると二人の頭上の幹の上で、大きな牙を光らせるサーベルタイガーの鋭い瞳とばっちり目があって…。

「…でも、サーベルタイガーの胃袋に近づいただけだったりして…、」

二人がごくりと息を飲む音がやけに静まっているあたりに響いた。数秒、見つめあっていたが腹をすかせたタイガーは低い唸りを上げて先制に出た。

「「ぎゃあああああーーッ!!」」

ぐわっと鳴き声をあげて二人に飛びかかろうとしたサーベルタイガーを危機一髪で転がり避けて、両手をあげてダッシュで逃げていく。こちらは巨人宅方面だが、そんなこと言っている暇はない。足の速いサーベルタイガーに追いつかれぬよう、ただひたすらに走り続けていると…前方にはまた新たな刺客が待ち構えていた。
それは有名な恐竜、ティラノサウルスだ。慌てて踵を返すナミとウソップの後方にいるのは、腹をすかせたサーベルタイガー…だが、自分よりも数倍大きく、牙も尖っている恐竜に本能が危機を知らせて、タイガーも尻尾を巻いてナミとウソップと一緒に逃げ走る。あまりにもおかしな光景だ…。
もう自分自身も訳もわからずに、悲鳴を上げながらひたすら走り続けていると前方にすうっと大きな大きなブーツが現れた。

「ひっ!」
「ああっ!」

追いかけてくるティラノサウルスの体長と同じくらいの足のサイズを持つ者は、二人が知るにはただ一人、巨人のブロギーだ。全員が足を止めて見上げてみると、舌なめずりをする彼がうつった。言葉なくても、その意味は分かってしまう。ティラノサウルスもサーベルタイガーも絶対に勝てない相手だと悟り、身体を震わせながら瞬時に逃げていった。遅れを取るのは、ナミとウソップだけだ。二匹のように足が速いわけではないため、すぐに彼に追いつかれるだろう…。
ぶるぶる震えるウソップに、頭を抱えてうめくナミ。もう、ぼろぼろこぼれる涙が止まらない。

「結局…、ここじゃ誰の胃袋に収まるかってことが違うだけで…行き着く先は同じ運命なんだ…ッ、」
「やるだけのことはやったわ…受け入れましょう、運命を…ッ」

もう、ここまで来れば腹を括るしかない。ああ、もっともっとやりたいことは山ほどあった。大好きな仲間とまだまだ一緒に過ごしていたいし、冒険もしたい。大きな夢や野望だってある。死にたくない、絶対に死にたくないけど、相手が巨人だなんて…普通のサイズのしかも能力者ではない生身の人間が敵う道理なんて一縷もないのだ。
そんな二人の心情を知らずに、ブロギーは優しい笑みを浮かべてそっとしゃがみこんだ。

「何だ。気がついていたのか」

二人に顔を近づけて、嬉しそうに声をあげるが、恐怖のフィルターにかかればその笑みは凶悪で声も歪んでいるように聞こえて仕方がない。

「肉も焼けたぞ。酒の礼だ。食ってけ」
「ううう…、」
「えええ…、」

ジャングルに響くのは、聞いたこともない鳥の鳴き声。そして、あらゆる獣のうめき声。そんな得体の知れない奴らに噛まれるなんて、想像しただけでも肌に痛みを感じてしまう。これなら…まだ巨体を持つ巨人に一飲みされた方が安らかに胃袋へ落ちることができるかもしれない。二人は観念して、彼の住処へと戻っていくのだった。


   ◇ ◇ ◇


「…今、ナミさんの悲鳴が聞こえたような…」
「え、そうかしら?」

仲良く談笑しながら適当に歩いていた二人。サンジが急に立ち止まり振り返ったため、アリエラも足を止めた。今日は、ジャングル探索のためいつもの綺麗なヒール靴ではなく、スニーカーを履いている。いつもと少し開けた身長差にサンジは先ほどからきゅんとし続けていたのだが、彼女の声に惹かれた今、何も考えずにふと彼女を見つめてそれをより感じて、また胸を高鳴らせてしまった。このままではいつか、彼女に殺されかれない。いやまあ…こんな絶世の美女様を最期に見つめられるのは極上なことではあるが…本望かと訊ねられたらどうだろう。

「空耳か…?」

なんでもないフリを装って、空を見上げるサンジにアリエラもこくりと頷いた。

「さっきから変な鳥が飛んでいるの…。あの子が鳴いたんじゃないかしら?」
「うお、何だありゃ! あれってプテラノドンじゃねェか!?」
「ええ、あの鳥みたいな恐竜の? 」

くるりと青い瞳を丸めて、アリエラは何度かまばたかせた。
確かにあれは鳥と称するには、あまりにも大きすぎる生物だ。歴史学で何度も読んだ教科書や参考書には、翼竜に一種であるプテラノドンは79メートルもあると記されていた。随分と遠くを飛んでいるが、はっきりと姿を捉えられるため、やはり相当大きいのだろう。
びくっとして口元に手を当てるアリエラに、かんわいいなあとでれり、表情が蕩けてしまいそうになったが我慢我慢。唯一の恋を抱くレディにそんな自分はあまり見せたくない。
真摯をもって接したいのだ。

「あァ。どう見ても、そうとしか思ねェ姿をしているけど…」
「うん…。でも、恐竜は現代の世界にいないはず…」

そう、二人が顔を見合わせる。もう、幼い頃から認知している常識だ。地学者も考古学者もみんながそれを証明して、論文などを発表している。信じて疑わなかった事実なのに、この歳になってそれが覆されることになるなんて。
サンジが今引きずっているのは、アリエラを襲ったティラノサウルスだ。どこからどうみても、この獲物は恐竜。だから、あの鳥も──。

「…この島はなんだか現代じゃないみたい」
「ああ…グランドラインってのは、ここまで摩訶不思議なもんなのか?」
「うん…私、恐竜がいるなんて聞いたことないわ」

ビビがこれまでの常識を捨てることね。と言っていたけれど、それは海原の上のみではなく、各島々でも通ずる話なのだろう。理解を飲み込みたい気持ちと、すぐには受けられない気持ちが一緒くたになって渦巻いている。

「…行こうか、アリエラちゃん」
「うん…そうね」

とりあえず今は考えることをやめた。こういう時は、その他のクルーと合流して話し合ってから色々考えたいものだ。
そっと手を差し出したサンジの手に、アリエラも自分のものをそっと乗せた。綺麗な手だけど、骨張っていて意外にもがっしりしてて、男の子の手だわ…と感動した。こんな些細なところまで作りが違うのね…。
ゾロが手を取って、小せェ…細ェ…とつぶやいていたことを思い出す。彼も男女の差を感じて胸をくすぐらせていたのかしら? そうだったら、嬉しくって照れくさくって口元がにやけてしまう。
ああ、もう。彼に心を翻弄されてばかりだわ! と甘露な怒りを心のうちで吐いて、サンジを見上げた。

「(まあ、綺麗なお顔)」

よく整った顔がぱちりと視界に飛び込んできた。
金色の髪は女の子が羨むほどにサラッサラだし、 優しげなたれ目に高い鼻、薄い唇も形がよくってちょっぴり生やしている髭も爽やかでかっこいい。サンジをみると、彼は大体表情を蕩けさせたり、目をハートにしたりしていたから、こうして綺麗な横顔をまじまじと眺める機会はほとんどなかった。そういえば、彼と二人きりになったのは初めてのことだ、とアリエラは思い返してみる。

「…アリエラちゃん? どうしたの。おれに見惚れちまってた?」
「うん。サンジくんってすっごく綺麗なお顔しているなあ…って、こうしてゆっくり眺めたのは初めてだったから」
「綺麗?」

確かに、それはよく言われてきた褒め言葉だ。たいてい、男前だとかそういった男らしい褒め言葉ではなく、イケメンだとか綺麗だとか爽やかなニュアンスを込められた褒め言葉をかけられることが多かった。だから、驚くことではないのだが、これほどの美女に言われたら素直に心から嬉しいと感じてしまう。胸にぽっと火がついて、感情の波が荒ぶるのは、惚れた女の子からもらったからだろうか。これが他の女の子だったら、メロリンメロリンと目をハートに変えて身体をくねらせるのだろうが、彼女にはそれができない。クールにかっこよくみられたい、と身体が拒否するようになってしまっている。

「ありがとう。アリエラちゃんに褒めてもらえるとすっげェ嬉しいっつーか、自信になるっつーか…」
「サンジくんは綺麗でかっこいいじゃない。今までたくさん言われてきたでしょう?」
「うーん、まあ人並みには…。アリエラちゃんこそさ、もう嫌ってくらいに言われてきてるだろうが…、本当に信じられねェくれェに美しいよ。生きてるのが不思議なくらいだ」
「生きてるのが、?」
「え? あ、いやそういう否定的な意味じゃねェよ。綺麗すぎて…そう思っちまうんだ、悪い…アリエラちゃんの気持ち考えてなかったな。おれの発言が不快だったらごめんね」
「…ふふ、ううん。サンジくんにこうやって褒めていただけるのはすっごく嬉しいわ。だって、サンジくんは純粋なんだもの」
「純粋? ははっ、女の子には初めて言われたよ」
「うん、確かにたまに不純な時もあるけれど……そうねぇ、」

思い返して、いたずらな笑みを浮かべてくすくす笑う彼女が今、たまらなく愛おしく感じてしまった。このまま掻き抱いて、小さな耳元で名を囁きたくなってしまった。だけど、まだ自分も心の準備が──。本気な故に、おちゃらけることなんて絶対にできない。

「じゃあ、サンジくんは…私のどこが綺麗だと思う?」
「アリエラちゃんの? そりゃもう全部さ。全てのパーツから雰囲気まで何もかもが完璧に美しいよ」
「ふふ、ありがとう。じゃあ、言い方を変えるわね。私のどこの部分が一番美しいと感じたの?」
「青く輝いてる目だよ」
「目?」
「もちろん色もその彩度もすっげェ綺麗で美しいけど、おれはそこじゃなくって死ぬほどの努力をしてこの美を手に入れたんだな…と思わせるキミの目に何よりの美と魅力を感じるんだ。…もっちろん美しいなんてもんじゃねェそのご尊顔もこの上ねェ魅力を放ってるけど

ふと、でれっと相好を崩すサンジのその仕草にどこか違和感を抱いた。
何だか無理をしているというか、演じていると感じてしまうのはどうしてだろうか。だけど、彼がこぼした言葉は本心であり、偽りなどは一切伺えない。アリエラは思いはしたが、特に深く気にすることなくいただいたことばをこくりと飲み込んだ。
心に流すと、じんわりとあたたかくなっていくのを感じる。ああ、彼は…なんて素敵な男性なのだろう…。

「そんなこと言ってくれるのは…サンジくんだけだわ」
「え?」

でれでれしていたサンジだけど、すぐにぴたりとそれを止めて真面目な顔で嘘だろ?と訴える。彼の瞳は、アリエラと比べると色味が薄い。海というよりは、空の色だ。
その反応こそが純粋だとアリエラは思った。ゾロにも言われたことはあるけれど、さっき「他の男の名を出さないで」と言われたからここはぎゅっと口を結んだ。

「私はこれまでいろんな方に褒めていただいてきたけど、みんなみんなこの顔のことしか言わないの。絶世の美女だとか、類い稀なる美女だとか。そんなことばかり」
「そうだろうなあ。アリエラちゃんはさ、自分のお顔をもう見慣れてるから何とも思わねェかもしれねェけど、やっぱり人を感嘆させる美を持っているんだ。おれも最初アリエラちゃんを見た時、夢を見ているのかと思ったくらいだよ」
「サンジくん、固まっていたものね」
「あァ。こんな美女が本当に存在するのか…って自分の目を疑ったくらいに、キミは誰よりも美しいよ。だけど、アリエラちゃんからすりゃそりゃあいい気はしねェよな」
「うん。最初はとっても嬉しかったけれど、あまりにも度がすぎるとうんざりしちゃうの。だって、このお顔は両親からいただいたものだもの。私がどうにかしたものじゃないから、素直に受け取っていいのか分からない時があるの…」

エトワールとしてどれだけいい演奏をしても、どれだけ素敵な絵を描いても、最終的に向く称賛はいつもいつも容姿だった。いやあ、それにしてもこんな美女が。この絵をこの美女が描いたのか。そんなことばがアリエラの目の前で幾千と飛び交って困らせ、最後にはそこばかりに着眼点を向ける彼らに唾棄を抱くこともあった。そのたびに、褒めてくださる彼らになんて思いを…。と自己嫌悪に陥って、胸が苦しくなってしまったが。

「だから、大好きな仲間に…サンジくんに。そう言ってもらえて私とおっても嬉しいの。こんなに素敵な心を持つ方と仲間になれたなんて、胸がうずうずしちゃうのよ」

さっきの、偽りのない穏やかなトーンでの即答がとってもとっても嬉しかった。これはどうしようもない偏見だけど、サンジは無類の美女好きだからか、パーツのことではなく奥に潜めているものを心眼で見てくれていたなんて。余計にそこに本心を感じて嬉々を抱いてしまった。
でも、彼もそうだわ。とアリエラは双眸をサンジの瞳に映す。

「サンジくんの瞳もそうだわ。私も人の目を見たらわかるの。サンジくんは…きっとものすごい困難や愁歎を乗り越えて、想像を絶する努力をしてきたんだわ…と感じさせるの。だからルフィくんもあなたに惹かれたんだわ。目が輝いているんだもの…サンジくんは空みたいね」
「……!」

胸のずうっと奥に黒を巻いて潜めている記憶と、それからの記憶。
普段は閉ざされて絶対に開くことのない蓋が少しだけずれて、過去の記憶が脳裏によぎった。それは“あそこでの”生活。唯一のひかりでもあった花のにおいにあふれた、愛おしい人の寝室。彼女がそのことを知っているはずは断じてないが、誰かに“大切な人”の記憶を呼び起こされたのは初めてだった。
いつも笑顔を向けていた、美しく強い人。あたたかくって愛をくれた人。永遠に忘れることのできない、大切な人。
彼女は間違いなく天の方を指したのだが、どうしてかサンジには人名に聞こえてしまった。空みたい。胸がくすぐって、むず痒くなってしまう。そういえば…髪の毛と瞳の色味がよく似ているとサンジはアリエラを見て思った。

「サンジくん?」

薄氷のような透明に名を呼ばれて顔をあげてみると、アリエラの大きな目とばちっと視線が重なった。それだけで、胸が大きく高なってしまう。これは早く慣れねェといけねェな…とこぼしたところで、彼女と距離ができていることに気づいた。アリエラは数メートル先に立って、不思議そうに小首を傾げている。ふと、自分の足元に目を落としてみると、黒い革靴は動きをやめていた。

「どうしたの?」
「ああ…ごめん、ちょっとぼーっとしちゃってた」
「わあ…大丈夫? 昨日、サンジくんが不寝番だったものね」
「はは、そうじゃないよ。眠気はないから心配しなくても大丈夫さ」

まだ、彼女と会って多くの時間は経っていないけれどこれで分かってしまった。
別に重ねているわけではないし似ているわけではない。ましてや、そこに惹かれたわけでもないが、アリエラは奇しくも母親以来サンジにとって再び訪れた花のひかり。綺麗なことばで自身を包み込んでくれる、あたたかな人。きっとこれから先もずぶずぶ彼女に落ちていくことだろう。恋に理屈などはない、難しく考える必要はないのだ。
きっと、きっと。恋が叶うことはなくても、このひかりに包まれていたら幸せだと思えるだろう。

「アリエラちゃん」
「なあに?」

花を思わせる名を呼ぶと、その名を持つ花はふっと青い瞳を細めて小さく首を傾けた。
ああ、なんて美しく愛おしい人だろう。このまま、金色に包まれている髪の毛を指でさらってみたくなったが、手が、腕が固まってしまって彼女に腕を伸ばすことができなかった。
美しく愛おしいと同時に、なんて毒を持った子だろうか。本人にはそのつもりは一切ないのだが、その美に気圧されてしまう。気後れしてしまう。
そういえば、絶世の美女エトワールは白花のような甘美なフェイスの下に毒を潜めていると聞いたことがある。花の名に倣い一部では“夾竹桃の美女”とも呼ばれていたとか…。

なるほどな…。とサンジは今ここでそれをふと思い出して納得してしまった。この先の人生、何度この子への恋に毒に光に触れることになるだろうか。永遠に魅了され続ける未来を安易に想像できてしまい、サンジはほとほと困ってしまうのだ。

「さあ、行こうか」
「うん」

なんでもないフリを装って、アリエラに手のひらを差し出すと彼女はにこやかにそれを取ってくれた。ふれた手のひらの柔らかさと言ったら。胸が締め付けられて、恋の表情に蕩けてしまう前にサンジは心の中でこほんと咳払いをして極めて紳士に務めるのだった。

next..→




1/2
PREV | NEXT

BACK



×