132、霧の中で


チョッパーが仲間になり、名もなき国を立って三日目の朝。メリー号はあたたかな海域をのんびりと航海していた。

「間違いないわ。この船はアラバスタに向かってる」
「よかったわ。ね、ビビちゃん」
「ええ」

サンジがロウの家から盗んだアラバスタ用の永久指針と気まぐれな偉大なる航路の中でも極めて珍しく穏やかな気候が続いているため、予定よりもずっと早くにビビの故郷に到着しそうだ。アリエラが笑みを浮かべると、ビビもほろっと表情を崩して、波に揺られて左右に踊っているメリーの頭に目を向けた。

「(もうすぐ参ります…)」

目を伏せて、祈るように故郷にいる父に心の手紙を送る。
今、アラバスタはどんな状況に侵されているだろう。手遅れなんてことは絶対にないはずだけれど、ナミとアリエラが隠していた新聞を見てしまったら不安が募るばかりだった。

一人だったら絶対に挫けていたこのもやもやも、穏やかで愉快な仲間に囲まれていたから追い詰められるまでに考えずにいられた。
すう…、と大海原の空気を吸い込んで吐くと同時に肩の力を抜くと、穏やかなビビの心情とは相反したサンジの低い声が甲板におちた。

「し…、しりません」

次いで、弛んだ糸のような頼りないルフィの声がおずおずとこぼされた。メイン甲板であぐらをくみ、目前で煙草を吹かしているサンジから目を離してかわいそうなくらいに泳がせている。唇を尖らせて笛を吹いているけれど、同様のせいで鳴るのは掠れた空気の音だけだ。
それにますますカチンときたサンジは指で持っていた煙草を咥えてしゃがみこむ。

「……ルフィ。嘘つくんじゃねェ、知ってることを言うんだ!」
「ん……、」

糾明しているサンジとルフィのすぐそばの欄干ではウソップ チョッパー カルーが肩を僅かに震わせながら仲良く釣りをしていて、反対側の囲いのそばではゾロが大の字になって眠っていた。

「おい、何顔逸らしてんだ。ちゃんとおれを見ろ!」
「んぶっ…、」

真横を向いてしまったルフィの顎を大きな手で掴み、無理矢理こちらを向かせるとルフィはまたもやキョロキョロと目を泳がせてから、手を持ち上げてぶんぶん左右に動かし否定を示す。

「いや、いやもうほんと。なんにも知らねェから、おれは」
「じゃあ聞くがな。アラバスタまで持つようにおれがちゃんと配分した9人分の食料が何故夜中のうちに消えたんだ?」
「……なんでだろうなあ」
「無駄な抵抗はよせ。てめェはポーカーには向かない人間なのさ」
「う…っ、」

もう一度顎を掴んでこちらを向かせるとまだ抵抗に目を逸らすから、サンジはパッと手を離して立ち上がる。そして、ポケットに手を突っ込んでから目を丸くしてルフィに顔を近づけた。

「おい、口の周りになんかついてんぞ?」
「うわッ!? しまった食べ残し!!」
「おめェじゃねェかァ!!!」
「うぶッッッ!!」

はったりをかけたらルフィはまんまと騙されて、サンジの鋭い蹴りによって欄干へと激しく衝突した。いつもなら船を大切にしろ!と怒りを向けるウソップも今回ばかりはだんまりで、見向きもしないで釣り糸を揺らしている。

「ったく…。あぁっ、ナミさん見たろう? もう巨大ネズミ獲りじゃ間に合わねェ。鍵付き冷蔵庫買ってくれよぉ
「…そうね。命に関わることだから考えとくわ」
「ルフィくんのばか! わたしたちのごはんがなくなったじゃない!」
「ごめんよ、レディー達! おれがしっかり管理してなかったから……あのクソゴムは…ッ、。けど、大丈夫。レディーたちのご飯だけはおれが何とかいたします!」

さっきとは打って変わってメロリンとハートを飛ばすサンジにナミたちはほっと安堵をこぼした。このまま約三日間、食事ができないと考えただけで胃が擦り切れそうなほどにキリリと痛んだから。
レディーの安心した顔を見て表情をとろけさせたサンジは、さっきから気になっていた釣り組に目を向けた。近づいてきた革靴の音にウソップははっとして竿をくいくいと引っ張ってみる。

「さあて、釣らなきゃなあ。サンジ君のために!」
「うん…!」
「クエ!」
「よお。釣れるかい」
「まっ、まあまあだなっ!」
「クエーッ!」
「ふうん、そりゃよかった」

にんまり満面の笑みを浮かべてから右手にウソップの頭、左手にカルーの頭を添えるようにして持ち、

「おめェらもだよッ!!」

チョッパーを挟むようにして両方を激しくぶつけ当てた。頭の衝突にぐわんぐわんと脳が揺れる。目を回して倒れ込んだ三人の口元には新しい食べかすがついていて、サンジは呆れたように煙草に火をつけた。

「全く油断も隙もありゃしねェ……」

紫煙を軽く空気にこぼしてため息を吐く。彼らに背を向けてくるりとラウンジの方に目を向けると麗しき美少女が三人並んでいて、サンジの眼にも心にも春のような心地の良い風が流れ、苛立ちはあっというまに気流に連れていかれた。

「レディー達 休憩にお茶でも淹れましょうか?」
「ありがとう、サンジくん。わたしはアイスティーいただこうかしら」
「私もお願いするわ、サンジ君」
「かしこまりました ビビちゃんは?」
「私は今は大丈夫。ちょっと風に当たってたいの」
「そう。私は中にいるからまた何かあったら呼んでちょうだい。今のところしばらくこの気候が続きそうだけど」
「ええ、分かったわ」
「わたしもラウンジで絵を描こうかしら。トニーくんもどう?」

甲板でちょこんと伸びていたチョッパーに声をかけると、彼はむくりと顔を持ち上げて「うん」と頷き、可愛らしい足音を立ててアリエラたちと共にラウンジに入っていった。



「ああ…全然釣れねェなあ
「ルフィ、てめェが餌まで食うからいけねェんだろうが! 餌がなきゃ釣れるもんも釣れねェよ!」
「お前だって少し食っただろ」
「まあ、ふたに引っ付いてたやつだけだがな」
「ほら」
「つーかルフィ、これはおれたちの秘密だぞ。女子…特にお嬢にバレてみろ、あなた達ってほんっと最低ね!っておもっきり引かれるぞ、最悪ぶたれちまうかもしれねェ」
「うん。うん、アリエラには絶対に言わねェ!」
「アリエラだけじゃなくナミとビビにもな」
「おう」

こそこそ話をしていると、ヒールの音が徐々に近づいてきてウソップはひっと背筋を伸ばした。だけれど、今甲板にいる女の子はビビだけだ。そこにひとまずほっとしてから釣り竿に意識を集中させる。やっぱり“エサ”がエサなだけ重くって腕が草臥れてしまいそう。

「ウソップさん、ルフィさん、何か釣れた?」

やわらかい音色を響かせて、水色の髪の毛の束をふわりと揺らして二人に問う彼女の小さな耳に「クエ…」と助けを求めるカルーの鳴き声がどうしてか船の下、海の方から聞こえてきて目を見張る。

「カルー!?」

まさか、と思い二人の間に割り込んで海面を覗き込んでみると釣り糸にぐるぐる巻きにされたカルーと目があった。

「クエ!」
「カルー!! いやあー!!」
「釣れるかな?」
「おれは海王類釣りてェなァ」

わなわなしているビビの隣でルフィとウソップは呑気に魚に夢を見ていて、むっときたビビは背筋を伸ばし瞳を尖らせて「あなた達……」と低くこぼした。

「カルーに何すんのよ!!」
「うッ!」
「いてッ!」
「ふんっ」

さっきのサンジの攻撃と同じように、ビビはお互いの頭に手を添えて思い切り頭をぶつけ合わせた。もう一度くらったウソップは追い討ちの頭痛に目を回し、ルフィも驚き二人同時に腰を下ろしていた欄干から甲板にひっくり返った。ずっと竿を持ち続けているから、縛られていたカルーも引き上げられたはいいもののまだ宙ぶらりんで怒りの鳴き声をあげている。
助けを求めるようにビビに目を向けたが、彼女は別の方…海面に意識を向けていてカルーの声は届いていなかった。

「…あれ、何かしら」

焦りを含んだビビの声にルフィとウソップも起き上がり、彼女の視線をたどって海面に目を向ける。いつもと変わらぬ燦々とした青だけれど、一箇所だけもくもくと煙のような湯気のような蒸気が大量に揺れていてまるで温泉のようだった。

「なんだありゃ」
「わたあめかな!?」
「ンなわけねェだろ!」
「ナミさんを呼んでくるわ!」

呑気なルフィだが、こんな海から湯気が立つなんて見たことがなくてビビは慌ててラウンジへと駆け上がっていく。もしかしたら何か大きな災害異変なのかもしれない。このまま進んで大破したらみんなの命が…。

「ナミさん大変!!」
「きゃ、びっくり」
「どうしたの?」

焦りのまま勢いよくドアを開いてラウンジに顔を出すと、アリエラとチョッパーがびくっと体を震わせ、ナミとサンジはゆっくりと顔を持ち上げて首を傾げた。穏やかな彼女がこんな血相を変えてやってくるなんてルフィあたりが何かしたんじゃ!とサンジは苛立ちを浮上させたが、でもそれだったらナミさんを呼ばねェから異常事態か?と煙草を灰皿に押し当てて立ち上がる。
サンジに倣い、ナミたち三人も腰をあげて外に出るとさっきよりも多く靄が揺らめいていて、ビビは不安そうにナミを見つめた。だが、彼女は「ああ、」と小さくこぼし笑みを浮かべるだけだ。

「ナミ、これなあに?」
「大丈夫。これは何でもないわ、ただの蒸気よ」
「ただの蒸気が海から?」
「ええ、ホットスポットよ」
「なんだそれ?」

ラウンジ前の欄干にぶらさがって、チョッパーは不思議そうにまん丸な目をさらにくるりとさせた。

「マグマができる場所のこと。あの下には海底火山があるのよ」
「ふうん、わたあめじゃねェのか」

てっきり不思議わたあめだと思ったのに、とつまらなさそうに唇を尖らせるルフィは背中とくっつきそうなほどにからになったお腹をぐうう…、と鳴らした。

「火山…? 海底なのにか?」
「ええ。むしろ、地上より海底の方がたくさんあるんだから。こうやってね、何千年 何万年後この場所に新しい島が生まれるの」
「ステキ ナミさん
「すごい! ロマンがあるわね
「そうね。私たちがその島に行くのは絶対に不可能だけど、数万年後には今の数倍島が増えてるはずよ」
「へえ、幽霊になって見てまわりたいなあ」
「アリエラちゃんが…幽霊……っ…いやだ!! アリエラちゃんがし、死ぬなんて…おれァ耐えられねェ…ううッ、おれを置いて死なねェでくれ、アリエラちゃん…ッ!!」
「うふふ、数万年後はサンジくんだってこの世にいないじゃない。だから一緒に幽霊になって旅しましょう」
「は、はいっ!! 幽霊になってもおれはアリエラちゃんの側にずっとずっといたいです!!」

なんて可愛いことを言うんだ、と心を踊らせているとすらりすらりと愛のことばが出てきて言い切った頃に幸福感と共にもやもやした気持ちが胸のうちでふわりと浮上した。
なぜ、この前の夜は言いたかった愛のことばや気持ちをすんなりと伝えられなかった…いや、そもそも今言うのを諦めてしまったのに、今はこんな軽やかに息をするように口にできたのだろう。
新しく取り出した煙草に火をつけながらそんなことを考える。きっとそうだ。きっと、みんながいるからだろう。無意識のうちにアリエラに対して“演技”をしてしまっていたのだ。二人きりだとそれができなくて、恥ずかしさと照れ臭さ、そして幸福感を異常に感じて何にも考えられなくなる。考えられなくなるからそれを考えすぎて、結局照れ臭さが勝って告げられずにいるのだ。

──なにヘタってんだ、おれは…

自分の情けなさに紫煙をこぼすふりをしてため息をついた。恋をすると自分な嫌なことまで目についてしまう。そんなサンジの様子をゾロは寝たふりをしてひっそりと見つめていた。

「なあ、サンジ
「……ん?」
「腹減った。なんか作ってくれよ」
「しょうがねェ奴らだ…。倉庫になんか残ってねェか徹底的に調べてくる」

深いところに思考が落ちてしまいそうだったから、ルフィの呼びかけにサンジは正直ほっとした。船長のご要望にジャケットごと腕まくりをすると、気持ちも引き締まり仕事に気分を変更させて食料庫に入っていった。



その間、メリー号はホットスポットにまで進んでいた。
もくもくとあたりを霧のように包んでいる蒸気は無臭と思いきや火山から生まれているからひどいにおいが鼻腔を刺激する。

「んんーっくさい!」
「ゲホッ、硫黄くせェッ!!」
「何にも見えねェ! キリだらけだ!」
「我慢して、すぐに出られるから!」

女性陣はポケットに潜めていたハンカチを鼻と口に当てているから、効果を抑えることができたがルフィたちは素で受けているから悶絶している。ゆで卵とか温泉の匂いと変わりはないのだが、これほどに束になって襲いかかってくるとそれは一気に刺激臭に変わって、咳き込みはじめた。

それから数分経ち、ようやく靄も払い切って、澄んだ空気 良好な視界が戻ってきた頃。不快感がなくなったと同時に信じられない光景に一同は瞠目して左舷欄干に注目した。

「うおおっ!?」
「何だこいつ」
「クエーーッ!!」

ルフィとウソップが引き上げたカルー付きの釣竿。そこに奇抜な人間が引っかかっていたからだ。しがみつくようにカルーを抱きしめながら、引き上げられた宙ぶらりんの状態で彼とも彼女とも言えぬピンクのコートを着た人物はルフィとウソップと目を合わせてこくりと息を飲み込んだ。そして、悲鳴をあげた。

「しまったー! あちしったらなぁに出会い頭のカルガモに飛びついたりしてんのかしらァ!!」
「に、人間か?」
「さあ?」

あまりの姿にルフィが吃ってしまうほどの破壊力を持つ人物は叫んだ拍子に思わず手を滑らせてしまって、「ぎゃあーっ! 助けておねがい、あちしったら金槌なのよう!」掠れた声を響かせてもがもが溺れている様子に寝そべっていたゾロはやれやれとため息をこぼし、海に飛び込み助けるが他に船も何も見当たらないのでとりあえずメリー号に放り込んだ。



TO BE CONTINUED 原作116話-92話




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