80、再会の誓い


「ラブーンはただのクジラじゃない。人の心を持ったクジラなのだ」
 
そう、話を切り出したクロッカスにクルーの息を飲むおとが静けさを孕んだ辺りに融けていく。
 
「ラブーンが何故、レッドラインにぶつかり続けるのか…何故リヴァースマウンテンに向かって吠え続けるのか……聞くがよい。ラブーンの物語を」
 
クロッカスの眼鏡の奥に佇んでいる瞳は真剣を語っている。木のぼりをしているルフィの服を引っ張るウソップも、腕を組むゾロも、タバコに火をつけるサンジも、腰を下ろしたアリエラも、腰に手を当てているナミも。ルフィ以外の全員がそっと耳を傾けた。
 
 
 ある日、私がいつものように灯台守をしていると、気の良い海賊どもがリヴァースマウンテンを下って偉大なる航路に乗り込んできた。そして、その船を追うように小さなクジラが一頭。それがラブーンだった。
 アイランドクジラはウエストブルーにのみ生息する世界一デカいクジラだ。海賊どもはずっとラブーンとともに旅をしていたのだが、偉大なる航路の航海が危険極まるとラブーンをウエストブルーに置いてきたはずだった。だが、ラブーンはついてきた。
 
 アイランドクジラは仲間と群れをなして泳ぐ動物なのだが、ラブーンにとっての仲間はその海賊たちだったのだろう。船が故障し、彼らは岬に数ヶ月停泊していたから私も彼らとはずいぶん仲良くなったものだ。そんなわけで、出発の日…。
 
 『あんたを見込んで頼みがある。こいつをここで2〜3年預かってくれないか? おれたちは必ず世界を一周してここへ戻ってくる。ラブーンよ、よく聞けや。おれ達はこれからグランドラインに入って世界を一周してくる。だが、お前はここで待っていてくれ。危険なところだ。お前を連れていくわけにはいかねェんだよ。なあに、三年なんてあっという間さ。忘れるんじゃねェぞ。離れてたって、おれ達は仲間だ』
 
 こうして、彼らは錨を上げて出航をした。
 ゆっくりと波に乗る船を追いかけるラブーンだったが、船長の鋭い声が彼の耳をついた。
 
 『ラブーン! 待ってろよ。おれ達は必ず帰ってくる。必ず!』
 『キュッ キュッ!』
 
 夕日に向かって揺蕩う船をじっと見つめるラブーンのまだ小さな後ろ姿。それっきり、彼らはここに姿を見せることはなかった──。

 
 
「ブオオオオオオ」
 
クロッカスの落ち着いた声に混じって、ラブーンの鳴き声が外から聞こえてくる。その話を聞いた後だからか、クジラの低い鳴き声は湿っているように感じ、ぎゅっと胸が痛んだ。
 
「もう、50年も前の話になる」
「ええ…」
「50年?」
「ラブーンは50年もそいつらを待ってんのか!?」
 
アリエラとゾロの短い感嘆の後に、ウソップの声がすっと響いた。その音色には戸惑いと、そして怒りが塗られていて、微かに震えているようだった。
 
「だから吠え続けてるの? 体をぶつけて壁の向こうに……」
「ああ…」
 
決して向かうことのできない西の海。偉大なる航路と各海を隔たるこの巨大な壁は、世界一大きな体を持つ種のクジラでも、到底破ることなどできないもの。それもラブーンはきっと心のどこかではわかっているはずだ。それなのに、頭に大きな傷を作ってまで続ける理由は──。
 
 
いつまでも胃酸の海に滞在しているわけにもいかないので、クロッカスの案内の元、メリー号を動かすことにした。
巨大な扉を抜けて、突き進むのは薄暗い水路。クジラの体内だとはとても思えないほどの出来にクルーはほう…とため息をこぼした。
 
「すげェ水路だな。腹にこんな風に穴が空いててよく生きてられんな」
「これも遊び心か?」
 
メリー号の前を走っている島船のビーチベッドで新聞を開いていたクロッカスは、ゾロに続いたサンジの問いにコクリと頷き、新聞を畳む。
 
「“医者”の遊び心だ」
「医者?」
「さっきもそう仰っていたわ」
「ああ。私はこれでも医者なのだ。昔は岬で診療所をやっていた。数年だが、船医の経験もある」
「本当かよ〜?」
 
薄暗い水路に反響することばに、折れた船首に腰を下ろしていたルフィはニヤリと笑ってクロッカスに大きな瞳を滑らせる。
 
「じゃあ、うちの船医になってくれ!」
「バカ言うな。私はもうお前らのように無茶をやる気力もない」
 
水門の前までくると、ゆっくり滑らせていた船を止めて、クロッカスは水路の上にのぼり上げた。水路から壁に沿って伸びている梯子に足をかけて、上部へとさらに登っていく。
 
「医者か…それでクジラの中に絵が」
 
きっと、あれもクジラに害がないようしっかりと配慮された上で描かれたものなのだろう。サンジはスッキリした面持ちで、ふうと紫煙を吐いた。
 
「これは治療の痕なのね」
「そういうことだ」
 
登りきったクロッカスは、息切れひとつも見せないでナミに頷いている。
さすが、船医をやっていただけある。体型を見るに、若かりし頃の彼は筋肉に溢れて屈強だったのだろう。
 
「どうして体内に入って治療をされているのです?」
「これだけデカくなってしまうと、もう外からの治療は不可能なのだ」
「それで…」
「水門を開けるぞ」
 
クロッカスは壁に備え付けられているハンドルを回して、巨大な水門を開いていく。ここが体内と外を通じる入り口のようだ。徐々に開かれていく隙間からこもれる陽日が眩しく美しい。
水門が開かれると、青い水面がきらりと太陽光に反射してひかりに融けていく。ざぶんと内側に海水が入ってくるのを掻き分けながら、メリー号は偉大なる航路の海にようやく船を浮かべた。
 
「うははは〜ッ! 出たーー! 本物の空だーー!!」
 
グーン、と伸びをするルフィに続きクルーもようやく訪れた開放感と外の世界に安堵のため息をつく。偉大なる航路についた途端にバッドエンド。だなんて洒落にならない。
 
そのとき、眩しい光が瞼を刺激してミス・ウェンズデーが目を覚ました。
彼らをメリー号の船尾に乗せたまま出航したために、強制的に連れ出したのだが、クルーはそのことをすっかり忘れているようで、船首甲板に集まりわいわいしている。
 
「Mr.9…、」
「ん…ミス・ウェンズデー…? 一体…?」
「しー」
「ん?」
 
長い指を口元に当てるミス・ウェンズデーの滑らせた視線に倣って、Mr.9も前方、ルフィ達海賊に視線を向ける。幸い、こちらには気づいていない様子である。二人は顔を見合わせて頷き合った。
 
 
「しっかし50年か〜…随分待たせるんだな。その海賊も」
「バーカ、ここはグランドラインだぞ。…死んでんだよ」
「…やっぱり、そうなのかしら…」
 
しゅんと眉を下げるアリエラにウソップも同意しながら頷く。だが、サンジの言い分にはとても言い返す言葉が見つからない。ここはそういう海なのだ。強者のみが生き残る、過酷な海域。
 
「もう、いくら待とうが帰ってくるもんか」
「確かに、50年と言えばここは今より更に混沌とした恐ろしい人跡未踏の海域だったわけだものね」
「うう…そっかあ…。そうよねえ、だってまだ“大海賊時代”じゃなかったものね」
「おいおいてめェら! 何でそう夢のないこと言うんだ! まだわかんねェだろうが! 帰ってくるかもしれねェ! いい話じゃねェか…ッ」
 
うう、と涙を浮かべるウソップの気持ちもよくわかる。
船首からメインマストに降りてきたルフィは、転がっているメリーの頭にどかっと腰を下ろして珍しく真剣に仲間の話に耳を傾けていた。
 
「仲間との約束を信じ続けるクジラなんて……ッ、そうだろ!? おっさん!」
「ああ」
 
再び島船に戻って、ベッドに体を伸ばしていたクロッカスはゆっくり首肯するが、その瞳は鋭く険しいものだった。
 
「だが、事実は残酷なものだ。確かな情報で確認した。奴らは逃げ出したんだ…このグランドラインからな」
「そんな……」
「うそ……、」
「このクジラを置いてか…?」
 
か細く力の弱い音色を震わせて、ウソップは今まで体内にいたクジラ…ラブーンを見つめる。
ぱっちりとした大きな丸目は約束を未だしっかり見据えていて、額の傷は抉れてあまりにも痛々しい。なのに、この子を置いて逃げ出した。だなんて──。
 
「え、ちょっと待って。グランドラインから逃げ出したってことは、カームベルトを生きて通れたってこと!?」
「例え生きていたとしても、二度とここへは戻るまいよ」
「どうして?」
「季節、天候、海流、風向き。その全てがデタラメに巡り、一切の常識が通用しないこの海“偉大なる航路”はたちまち弱い心を支配する」
「心の弱いそいつらは、てめェの命惜しさに約束の落とし前も付けずにズラかったってワケか……」
 
優しい低音に震えて、紫煙もくすぐるように空気に揺れた。ルフィの大きな黒い瞳はじっとラブーンに向いている。
 
「見捨てやがったのか!? このクジラを…! こいつ、50年も待ち続けてんだぞ? そりゃひどいぞ!!」
「ええ……残酷だわ…」
「それが分かってるんだったら、どうして教えてあげないの? あのクジラは人の言うことが理解できるんでしょ!?」
「…言ったさ、全部。包み隠さずな」
 
それは、確定な情報が判明した時のこと。
健気に待ち続けるラブーンに、酷だと感じながらも心を鬼にして“現実”を告げたのだ。
 
 『ラブーン、よく聞け! 彼らはグランドラインから離れたそうだ。お前たちは確かに仲間だった! お前とした約束は紛れもなく本物だったはず! しかし、彼らはもう二度とここには戻って──』
 
人間の言葉がわかるラブーンは、クロッカスの言葉を遮ってあたりに鳴き声を響かせた。
 
 『ラブーン! 私の話を聞け! 受け入れたくない気持ちはわかる! だが、何とかして受け入れなければ…』
 『ブオオオオオ!!』
 『ラブーン!!』
 
怒りにまた鳴き声を上げたラブーンは、谺が響く中、大きな尻尾を水面に打ち付けて海に潜っていく。もう身体も大きく成長したラブーンの強い潜りは海水が激しく飛び散り、クロッカスをどっぷりと濡らした。それでも、何とか現実を告げるためにもう一度名を爆ぜるが、クロッカスの声は、ラブーンの鳴き声にぱちりと消されてしまったのだった。
 
 
「それ以来だ。ラブーンがリヴァース・マウンテンに向かって吠え始めたのも、レッドラインに自分の身体をぶつけはじめたのも…。まるで、今にも彼らはあの壁の向こうから帰ってくるんだと主張するかのように…」
「ふーー…。なんてクジラだ」
「待つ意味もねェのに…」
「うん…ラブーンちゃんは、どうしてそれでも待ち続けているの?」
「…待つ意味を無くすから私の言葉を拒むのだ。待つ意味を失うことは、何より怖いのだ。そいつの故郷はウエストブルー。すでに帰り道はない。だからここへ一緒にやってきた彼らが仲間であり、希望なのだ」
 
待つ意味。仲間。希望。そのひとつひとつの言葉が、重たくずっしりと心に降りかかる。
そこには長い長い年月が魂に込められている。50年。その気の遠くなるほどに長い年月、来る日も来る日も約束を信じてこの海で待ち続けた大切で美しき仲間との絆がなかったことになるなんて、これほどまでに辛いことはないだろう。
ウソップとアリエラの瞳にはじわりと涙が滲んでいる。
 
「でもよ、確かにこいつは可哀想なやつだが、言ってみりゃあんただって裏切られたんだろ? もういい加減、放ってもいいんじゃねェか?」
「こいつの額を見てみろ! このまま加減なく額をぶつけ続ければ、間違いなくこいつは死ぬ。妙な付き合いだが、50年も一緒にいたんだ。今更皆殺しにできるか」
 
珍しく大人し〜く話を聞いていたルフィは「ふうん」と相槌を打って、よっと立ち上がった。そして、どうしたのか走りはじめたのだ。僅か一瞬の出来事。ルフィはいつも突拍子もなく行動を始める船長だが、今回は大人しかった反動のせいか、慣れているはずのクルーも驚いてしまう。
 
「何やってんだ、あのバカ!」
「ちょっと目を離した隙に…」
 
サンジとゾロは汗を浮かべながら、彼が突っ走る姿をじっと見つめる。
彼の脇には、目を疑うようなものが抱き抱えられていた。ひらりと風に靡くのは、馴染み深いマークの入った黒い旗。それを持ったまま、ルフィはメリー号からラブーンの大きな体に飛び移って、坂道になっている背中を駆け上がっていく。
 
「山登りでも楽しんでんのかね」
 
やれやれと煙草を燻らすサンジの低音が甲板に落ちると同時に、ルフィは頭にまで上り詰めた。下からは見えなかったが、ついさっきまでレッドラインにぶつけていた古傷は抉れて噴水のように血が迸っている。そこに目を向けたルフィはひらめいて、走り寄った。そして、抱えていた巨大なものをドン!と傷口にぶっ刺したのである。
 
「ありゃマストじゃねェか?」
「そう、おれたちの船の」
「メインマストだ……って! ルフィ!船壊すなよおおオ!!」
「きゃ! ルフィくん何をやってるの!?」
 
身体の大きなラブーンは、痛みが伝わるまでに少しの時間が生じる。
傷口に突き刺されたマストから滲み出た鮮血も更に勢いを増していく。激しい痛みに大きな瞳にじわりと涙が浮かんで、ラブーンは大きく波を揺らして痛みと怒りに咆哮を上げた。
 
「「何やっとんじゃ! お前ーーーッ!!!」
 
一部始終をぽかんと見つめていたクルーは、その奇行に意識を戻されて全力の声を船長に向けた。さっきまでおとなしくしていたのに、本当にやることに前触れがなくいつも突然でそして大胆だ。
声を重ねなかったアリエラも「何してるの、ルフィくん!!」とわなわな細い指先を震わせている。
 
じわりと全身に滲みてゆく痛みに、ラブーンは瞳を潤わせた。次いでふつふつと現れるのは痛憤。頭のてっぺんから赤い土の大陸から伸びている陸地に足をつけた目の前のルフィの笑みが目について、ラブーンは本能のまま全力の怒りをぶつけた。
 
「おわあ! うわっ!」
 
世界一大きなクジラの突進威力は凄まじいもので、頭でルフィを壁に衝突させた衝撃に岩壁に亀裂が入り、音を立てて崩れていく。その頭突きは海面をも激しく揺らしてメリー号とクロッカスの島船を翻弄する。
 
「おい、小僧!!」
「大丈夫! あいつ、潰れたって死なないの!」
「ブオオオオオ!!」
「ラブーンちゃん…痛そう。ごめんね、うちの船長がおかしなことをして」
 
涙をこぼしながら、つんと瞳を尖らせて咆哮を空へと飛ばす。声は野太く、痛々しいものだ。
アリエラは揺れに耐えながら、ぐすんと鼻を啜った。
 
崩れた岩壁の山からそっと身を起こしたルフィは、怪我を作ってはいるがピンピンした様子で立ち上がった。その様子にクロッカスも双眸をまんまるに丸めている。
 
「へっ、バーカ!」
 
ルフィの言葉はラブーンの鼓膜を揺らして脳で理解を溶かす。
ぎろりと鋭い瞳を向けて、ラブーンはもう一度全力の頭突きをお見舞いするが、ルフィはひょいと避けてお返しだと彼の大きな瞳に強烈なパンチを振るった。新たな痛みと疼痛に鳴き声を爆ぜながら、尾っぽでルフィを弾き飛ばして灯台に衝突させる。ぐらりと揺れる地面に、また海面がうねりを上げた。
 
「おい、ルフィ! なんのつもりだよ!」
「ルフィくんもうやめなさい! 可哀想だわ!!」
 
ウソップとアリエラの叫びを無視して、ルフィは「やああ!」と声にエネルギーを蓄えて拳を握り突っ走っていく。ラブーンの顔にパンチを入れると、彼も負けじと構えていた頭突きでガードをすると屈強の衝撃に空気に波動が生まれた。
 
「ルフィ! てめェ何がやりてェんだ!?」
 
ゾロの強い言葉が揺れる空気に伝わる。
ルフィはそれにも返答をしないで、じっとラブーンを見上げ、ふっと口元に弧を描いた。もう戦意は感じられない。ラブーンは動きを止めて、ぱちりとルフィを見つめる。
 
「引き分けだ!」
「……!」
 
風に乗って、地に落ちた麦わら帽子を拾い土を払って頭に被せると、太陽のような笑みをラブーンに向ける。
 
「しししっ! おれは強ェだろ? おれに勝ちたいだろうが。おれ達の勝負はまだついてねェんだ。だから、まだ戦わなきゃならない。お前の仲間は死んだけど、おれはずっとお前のライバルだ! 必ずもう一度戦ってどっちが強いか決めなきゃならない!」
 
不思議なルフィの行動にはきちんと尊い理由があったのだ。
約束を無にしないために。仲間と行動するアイランドクジラを一人にさせないために。ルフィは、本気でやり合ってラブーンを友達とライバルと認めたのだ。じわりとラブーンの瞳に涙が滲んでゆく。
 
「おれたちはグランドラインを一周したらまたお前に会いにくる! そしたらまた喧嘩しよう!」
 
人の心を持つ優しきクジラ、ラブーンはルフィの言葉もその意思も全てしっかり理解をしていて、飲み込んだ優しさ温かさに心がじんわりと満たされていく。もう待っても待っても仲間が訪れないことは分かっていた。何年も前から知っていた。
光などない闇の中をひたすらに彷徨っていたラブーンの心に、差し伸べられた小さな手。数十年ぶりに照らされた陽光はどんどん広がっていき、希望となってとけていく。
 
ぽろりとこぼれた美しい涙は、太陽に反射して海面に波紋を作った。
ラブーンの鳴き声が響く中、クルーもクロッカスもみんな笑みを浮かべて二人の絆を見つめていた。
 
 
 

TO BE CONTINUED



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